4.会いたい その2
「あら、澄香! もう行くの? ちょっと待って……」
ホットカーラーの威力だろうか。
さっきよりふんわりとウェーブがかかり、形よくボリュームが出た髪を手で撫で付けながら、母が客間から顔を出す。
でも、もうタイムリミットだ。母の相手をしている時間はない。
「お、お母さん。あたし、もう行かなきゃ。寒いから出て来なくていいからね! じゃあ、行って来ます! 」
季節はずれのサンダルをつっかけて一緒に外に出ようとする母をとにかく引き止める。
「そうはいかないわよ。ちゃんと加賀屋君にあいさつしないと」
「いや、だから、あいさつなんていいから。また今度、改めてね。だからお願い、家の中に入ってて」
「何言ってるの? ちゃんとあいさつしなきゃ、お母さんの加賀屋さんとは仲良くさせていただいているのに、知らないふりなんかできないでしょ? でもまさかねえ。加賀屋さんちのボク……じゃなくて、ヒロヒコ君と澄香がそんな風になってるだなんて……」
「ああ、もう、わかったから。時間ないし。外は寒いし、来なくていいからね」
なおも押し問答が続く。
このままだと宏彦が到着してしまうではないか。
どうすれば母は引っ込んでてくれるのだろう。
「澄香ったら、照れてるの? いいじゃない、誰もがそうやって大人になっていくんだから。でもね、この目でしっかり確かめるまでは、やっぱり信じられないわ」
その時だった。車のエンジン音が家の前で鳴り響く。
宏彦がすでに家の前に到着しているのがわかった。
澄香は慌てて玄関のドアをあけ、外に出る。
予想通り、門の前に見慣れない白いセダンが止まっているのが見えた。
運転席から降りた宏彦が、やや緊張した面持ちで母親の前に立ち、おはようございます、お久しぶりですと挨拶をした。
母はどさくさにまぎれて、ちゃっかり澄香の横にくっ付いて来ていたのだ。
今日一日澄香さんをお借りします……と言った後、宏彦の瞳が優しく澄香を包見込む。
その様子をため息混じりに眺めていた母が、急に我に返ったように感嘆の言葉を発する。
「まあ……。ヒロヒコ君なの? あららら、立派になったわね。確か、高校の卒業式で答辞を読んでらしたでしょ? お会いするのは、あの時以来かしら」
「そうかもしれないです。大学は東京でしたし、その後も仕事で京都にいますから……」
「ホント、偉いわね。うちの子なんて、ずっと親元にいるから、苦労知らずで。一人暮らし、大変でしょ? 」
いやいや。
娘の一人暮らしを阻止するのは、母親のあなたなのだから。
澄香ははらはらしながら、母と宏彦の会話を聞いていた。
「はい。最初の頃はいろいろ困ったこともありましたが。もう慣れたので大丈夫です。でも、家族と一緒に暮らしておられる澄香さんがうらやましいです」
母のどんな無茶振りにも丁寧に受け答えする宏彦が気の毒になる。
お母さん、もうそれくらいにしておこうよ……。
澄香の願いもむなしく、母親のおしゃべりは止まらない。
「そうよね。ヒロヒコ君のお母さんも、とても寂しがっていらっしゃるわ。実は、加賀屋さんとは昨日もご一緒させて頂いてたのよ。なのに、この子ったら、今日までヒロヒコ君とのこと、何も教えてくれなくて。まさか二人がこんなことになってるだなんて思いもしないんだもの」
「ああ……。すみません。僕の母も澄香さんのこと、驚いていました。ちょっと事情があって、今まではあまり大っぴらなお付き合いが出来なかったものですから……」
ああ、そんなことまで話さなくてもいいのに。
どうやって話をやめさせればいいのか、澄香の頭の中は、小さなパニックを起しかけていた。
「そうなの? それにしても、うまく隠し通してくれたものだわね。全く気付かなかったわ。……何はともあれ、うちの子、こんなですけど、よろしくお願いしますね」
「あ、はい」
「加賀屋君なら安心しておまかせできるわ。そうそう、よかったら帰りにうちに寄って頂戴ね。主人も帰ってくるから、夕食でもご一緒に……」
と母親がますます調子に乗りかけたところで澄香がやっと話しに割り込む。
「もう、お母さんったら……。加賀屋君にも都合があるんだから、無理言わないでよ。帰りだってそんなに早く帰ってこられるかどうか、わかんないし」
そうだ、そうだ。
記念すべき初デートなのに、締めくくりが親との食事だなんて、興ざめもいいところだ。
「あらあら、そうなの? なら、しょうがないわね。じゃあゆっくりしてらっしゃい。気をつけてね」
澄香はしょんぼりしてしまった母親に手を振り、ちょっと言い過ぎたかもと反省した。
宏彦にエスコートされて助手席に乗り込む。
澄香がシートに座るのを待ち、彼がドアを閉める。
そして、車の前方から反対側に回り込み、運転席のシートにするりと座った。
隣に座る宏彦をちらっと見た瞬間、彼の左腕が伸びてきて、上から下にすっと髪を撫でられた。
それは、あっという間の出来事だった。
シートベルトを装着する時に、たまたま宏彦の手が触れただけなのかもしれない。
けれど、そう思うには、あまりにも手の位置が不自然だった。
みるみる頬が熱くなっていく。
昨夜、彼に抱き締められたことを思い出してしまったではないか。
あの時も髪を撫でられ、お互いの息遣いが感じられるくらい近くに顔を寄せ合い、そして……。
昨夜のあの光景が、永久にリフレインされ、胸のトキメキが抑えられなくなる。
思い続けた彼と心がひとつになった瞬間が、澄香の全身に刻み込まれているような不思議な感覚に陥るのだ。
そんな澄香の心を見透かしたかのように、宏彦がふっと柔らかな笑みをこぼす。
澄香は、ありえないほど高鳴る胸の鼓動を鎮めるすべも見つからないまま、動き出した車に、ただただ身をゆだねることしかできなかった。