2.誰なの? その2
ところが母親は一向にそこから立ち去る気配を見せない。
「友だちが迎えに来てくれるって……。もしかして、車で? 」
会社の同僚のチサも、高校時代の親友のマキも車には乗らない。
ならばいったい誰なのと母親の目が何か言いたげだ。
ここから三宮や梅田に向かう時は、交通渋滞や駐車場のことを考えると電車やバスを使う方がはるかに便利なのだから、母親が疑問に思うのも無理はない。
「だからさ……」
ベースメイクを施し、眉のラインを整えながらさりげなく話を続ける。
「か、彼がね、車でどこかに行こうって誘ってくれて。ここに迎えに来てくれることになってる」
よし。言えたぞ。
澄香は小さくガッツポーズを作り、すかさず瞼にブラウン系のシャドウを載せ指でぼかした。
「へえーー、そうなんだ……」
別に驚くでもなく、それ以上何を訊くでもなく……。
母親は洗いたての衣類が入ったカゴを抱えてテラスに向う。
が。きっかりその五秒後。
舞い戻って来た母親が、澄香にそっくりな大きな目を限界まで見開いて、仁王立ちになる。
「ええっ! す、すみか! それって、いったいどういうことなのっ? 」
「お、お母さん。びっくりするじゃない。洗濯物、干しに行ったんじゃなかったの? 」
鏡の中に再度姿を現した母親に驚き、メイク中の手を止める。
「洗濯物なんか、のん気に干してる場合じゃないでしょ。どういうことか、詳しく説明してちょうだい! 」
「どういうことって……。つまりその、彼が……」
マスカラのキャップを握ったまま後ろを振り返り、母親と向かい合う。
「彼って……。もしかして彼氏が出来たの? 澄香。そんな大切なこと、どうして黙ってるの? 誰よ。一体誰なの? 」
母親の勢いは止まらない。
「あ、あとで紹介するから。ね? だから、落ち着いて。お願い」
「澄香のそんな話、生まれて初めて聞くんだもの! まぁーーどうしましょ。で、誰なの? そのお相手は。私の知ってる人? 」
「ま、まあね」
「じゃあ、会社の吉山さん? あっ、彼は違うって言ってたわね。それじゃあ大学時代の福永先輩かしら? それとも、取引先の人? まさか信雅の友達ってことはないわよね。ああ、ちっともわからないわ。さあ、こんなところにいないで、リビングに行ってちゃんと話しを聞かせてちょうだい。ここは寒すぎるもの! 」
母親はありったけの知人男性の名前を並べたあげく、強引に澄香の手を引いて、極寒の地である洗面所から常夏のリビングへと連行していく。
福永先輩というのは、澄香の学生時代のサークル仲間だ。
一人暮らしの彼を、日頃お世話になっているお礼にと、時々夕食に招いただけの関係。
もちろん澄香の他の友人達も一緒だった。
少なくとも澄香は彼は恋人ではないと思っていた。
先輩後輩の域を出ることはなかったはずだ。
でもプロポーズされたことがあるのだ。
残念ながらその事実は消し去ることは出来ない。
サークルの忘年会の帰り道、半ば一方的に告げられたのだが、全くその気の無い澄香は一笑に付して取り合わなかった。
でも事あるごとに母親が探りを入れてきて、澄香が福永と付き合っているのではと誤解してる時期もあった。
福永が勇み足で、澄香の両親に結婚を匂わすようなこと口走ったのがそもそもの間違いの始まりだった。
あまりに聞く耳を持たない澄香に福永が痺れを切らせて、焦っていたのかもしれない。
卒業後はあきらめたのか、実家の家業を継ぐと言って島根に戻ったきり、音信不通になっている。
正直、今母親がその名を出すまで、すっかり忘れ去っていたのだから。
「じゃあ、教えてちょうだい。ほら、いつも熱心にメールしてる人なんでしょ? 」
ソファに背筋を正して座った母親の目がキラリと光る。
「うん。そうだよ。六年間、ずっとメールしてた人」
「六年も前に知り合っていたの? どうして教えてくれなかったのよ。この子ったら、いつから秘密主義になったのかしら」
秘密主義も何も、付き合ってもいないただのメル友のことを親に紹介することの方が稀だと思うのだが。
「いや、知り合ったのは、その……。もっと前。何年になるかな? あはは。わかんないや」
「わからないくらい昔に知り合ったっの? ってことは、澄香がまだ子どもの時に出会っているのよね? やだ。じゃあ、私の知ってる人って言えば、この辺の近所の人よね。同級生か先輩の誰かなの? 」
「う、うん。そうなの。彼がその。あたしのことを彼女だからって……。す、好きだって言ってくれて、それで」
澄香は後悔していた。目の前で身を乗り出す母親に、前もって言うんじゃなかったと。
宏彦が迎えに来てくれた時に、ひと言ふた言紹介すれば、それで済んだことなのに。
「好きだって? まあ。あきれた。さ、そんなことより、早く教えて。誰なの? 」
母親は一向にあきらめる様子を見せない。
それどころか徐々に確信に迫っていく勢いだ。
この人には敵わない。とうとう澄香は観念せざるを得ず、全面降伏へと導かれていった。