1.誰なの? その1
本編を最後まで読んでいただきありがとうございました。
いよいよ番外編のスタートです。
前半は甘めでコミカルですが、中盤~終盤にかけてシリアス展開になります。
本編の甘い余韻を楽しみたい方は、この先ご注意下さい。
では、どうぞ。
翌朝、目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた澄香は、洗面所の鏡に映る自分の姿に愕然とした。
昨夜泣いていたのは一目瞭然。思わず目を背けたくなるくらいひどい顔だった。
瞼が腫れ、頬も唇もむくんで、それはそれは無残な様相を呈していたのだ。
夕べ宏彦にタクシーで家まで送ってもらった後、自分の部屋に閉じこもった澄香は、寝る時間も惜しむようにして彼と電話で話し続けていた。
札幌の出張のことはもちろん、京都での暮らしぶりもいろいろと訊いた。
そこで、彼のことなら何でもわかっているつもりでいたのは単なるうぬぼれだったと思い知らされる。
メールだけで全て分かり合えていただなんて、とんでもない錯覚だった。
結局のところ何一つ理解していなかったのかもしれない。
彼の口から直接聞くまで、出張の一言がこんなに重みのあるものだとは、全く気付かなかったのだから。
そして澄香は、一人暮らしをしたいと密かに企んでいることを、初めて宏彦に聞いてもらった。
彼は澄香の言い分を何も言わず、ただ黙って聞いてくれていたが、一人暮らし歴の長い宏彦は、皆が思うほどそんなにいいものじゃないと沈んだ声でぼそっとつぶやくのだ。
賛成して後押ししてくれるとばかり思っていたのに、予想外の答えが返ってきて、澄香の意思は早くも揺らぎ始める。
でもそんな澄香の気持ちを察したのか、宏彦が明るい声で励ますのだ。
何事もやってみないとわからない。
もし澄香がそうしたいのならその時は力になる、と。
決して反対されているのではないとわかると、とたんに元気がみなぎり、明るさを取り戻す。
これで一人暮らしへの道のりにも拍車がかかりそうだ。
後ろ髪を引かれる思いで電話を切り、ベッドに入って目をつぶってみても、思い浮かぶのは宏彦のことばかり。
澄香は、二十四歳にして生まれて初めて経験したキスに胸を熱くし、彼のぬくもりを思い出しては涙ぐむ。
宏彦も自分のことを思ってくれていただなんて、まさに青天の霹靂としか言いようが無い。
これは絶対、何かの間違いだと再び本気で思い始めるくらいに、澄香は混乱していた。
つないだ時の宏彦の手の暖かさや抱きしめられた時の腕の力強さは、まだ生々しく身体のあちこちに余韻を残している。
それを思うだけで胸が張り裂けそうになり、重なった彼の唇の甘くて柔らかい感覚が蘇るたび……またわけもなく涙がこぼれるのだ。
結局、明け方近くまで宏彦を想い泣いていたのだから、鏡の中の酷い姿も自業自得というべきなのだろう。
もう一度自分の顔をじっくりと見る。
何もつけていないのにいつもより紅く見える唇は、まるで他人のそれのようにも見える。
そこに重なりゆっくりと忍び込んできたのは、確かにあの人だった。
澄香は唇にそっと人差し指を滑らせ、熱いため息と共に目を伏せた。
お気に入りの洗顔フォームで顔を洗い、瞼に濡れタオルをあてて冷やしながら、身支度を整える。
なるべく母親に気付かれないよう、足音を忍ばせて一階に下りて来たつもりだったのだが……。
「あら、澄香。もう起きてきたの? いつも日曜日はゆっくりなのに」
どうやらそんな努力も無駄だったようだ。
すぐに気配に気付いた母親が澄香ににじり寄る。
「ねえ澄香。何だか顔が変よ。どうかしたの? 夕べいつもと様子が違ったでしょ? 何かあったの? ずっと誰かと電話してるみたいだったし。心配だわ。何か悩み事? それとも、どこか調子でも悪いの? 」
朝のコーヒータイムも終えて家事に勤しんでいる母親は、二十四歳にもなった娘を捕まえてあれこれと気を揉む。
「お、おはよう。お母さん……。別にどこも悪くないよ。夕べ、よく眠れなかっただけ。単なる寝不足だよ」
澄香はなるべく母親と目を合わさないようにして、そ知らぬふりで髪にカーラーを巻きつける。
「そうなの? よりによって昨日はバレンタインデーだったでしょ? なのにそんな顔して落ち込んでてどうするのよ。元気出しなさいな。またそのうち、いいこともあるわ。ね、澄香」
神妙な顔をして慰めの言葉をかける母親に、澄香はがっくりとうな垂れる。
これではまるで失恋の痛手を負った娘に、優しく手を差し伸べる母親というありがちな構図が出来上がってしまうではないか。
家を出る少し前に手短に宏彦のことを話して、即座に姿をくらまそうと思っていたが、この状況ではそうもいくまい。
母親を安心させるためにもここは一大決心をする必要がありそうだ。
澄香は息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出し、覚悟を決めた。
「お母さん、心配掛けてごめん。あんまり寝てないけど、あたしはすこぶる元気だよ! 」
「あら、そう? ならいいんだけど……」
「ホントなんだってば。昨日、その……。ちょっと嬉しいことがあってさ。それで、ずっと泣いてたんだ。へへへ……」
澄香は腫れた瞼を物ともせず、母親に向って笑みを浮かべて、そう言った。
その間も手を休めることなく、メイクを仕上げていく。
にもかかわらず母親はますます困惑の表情を浮かべ、澄香の謎の笑みに首を傾げるのだ。
「んもう、お母さんったら。そんな顔しないでよ。そうだ。十時になったらちょっと出かけるね。あの、その、と、友達が、ここまで迎えに来てくれるんだ……なんちゃってね。あはは、あはははは……」
まだ気持ちを確かめ合って間が無い宏彦のことを、どう紹介していいのかわからず、友達だと言って、最後は笑ってごまかす。
それとなく事情を察したのか、母親の表情が徐々に和らいでくるのがわかった。
「だから、もう心配しなくていいからさ。お母さんはやりかけの用事の続きをして来てね。ここの掃除はあたしに任せて」