4.ミズナ その2
そう……。京都。
ここ三ノ宮からはJRを使えば新快速で五十分ちょっとで着く。
近いのに、澄香にとっては海を越えた外国のように遠い街でもあった。
「シャキシャキして、みずみずしくて、ほんまにおいしいねんよ。京都産のミズナ。店特製のごま醤油ドレッシングであえて……はい、どーぞ。お口に合うといいけど」
澄香が京都の地に思いを馳せている間に、ヤヨイの右手は素早く冷蔵庫のドアを開け、すでに洗って適当な大きさに切られたサラダの材料が取り出される。
そして、みるみるガラスの器に盛られて、ドレッシングが回しかけられる。
澄香が気付いた時には、もうすでにミズナサラダが目の前にちょこんと鎮座していたのだ。
ごまの香ばしさがほのかに漂い、たとえ箸を付けていなくても、このドレッシングが澄香の好みであることは、すぐに直感でわかっていた。
仁太がビールを注ぐ間も澄香は上の空で、危うくグラスが傾き、中身をこぼしそうになる。
「おい、池坂、しっかりしろよ。ははは、びっくりしただろ? ほんと早いよな、ヤヨイさんの料理は。そんでもってうまい。俺がここに惚れ込むの、わかるだろ? 」
「う、うん。そうだね」
そんな澄香の心の揺れに気付くはずもなく、満足げな仁太が自分のグラスにもビールを注ぎ澄香のグラスにそれをコチッと合わせる。
「乾杯! 俺たちの初めてのデートに」
「か、乾杯……。言っとくけど、デートなんかじゃないし! ただの食事なんだからね! 」
仁太のあまりにもなれなれしい態度にあきれて、澄香は口を尖らし、怒りを露わにする。
少なくとも本気で怒っていたのだが、彼の笑みはますます増長していく。
「なあ池坂、肩の力抜けって。俺がデートだって言ってんだから、それでいいの。な? 」
仁太は澄香の怒りすら楽しんでいるのか、終始ご機嫌な態度は変わらない。
「もう! よかあないわよ。なんでそうやって、いつもあたしに絡むかなあ? 」
「そりゃあ決まってんだろ? 池坂が好きだからさ。ずっと言ってるし、俺、あきらめないし」
「だから、あたしは吉山君のこと、会社の同期として以外何とも思ってないって言ってるでしょ? お願いだから、これ以上あたしを困らせないで欲しいの」
いつも繰り返されるこのやり取り。
初めて仁太に告白された時は、それなりに嬉しいとも思った。
ただし彼のことを特別な存在と思えない澄香にとっては、それだけのこと。
ましてや恋人同士になるなんて、たとえ天地がひっくり返ったとしてもありえないと思っている。
そのうちあきらめるだろうと適当にあしらい続けていたが、結局一年間、ことあるごとに繰りかえされる強引な告白に、そろそろ嫌気がさしてきたのも事実だ。
始めのうちはやんわりと相手を傷付けないように断っていたものの、今では澄香自身の性格が疑われるほどはっきりと拒絶を示しても、このありさまだ。
もうなすすべがない。
とにかく嫌だといい続けるしか策が思い浮かばない。
「なんで俺じゃあ、ダメなのさ? 池坂は誰とも付き合ってないし、毎日暇だろ? ならさあ、ためしにちょっとだけ俺と付き合うってのも……ダメ? 」
「だめ! 」
間髪入れずに答える。
「そ、即答かよ。ったくしょうがねえな」
ついに笑顔を消した仁太がグラスに残るビールを一気に飲みほした。
「なら……」
空になったグラスをゆらゆらと揺らしながら何かを考えこんでいる仁太だったが、再び元気を取り戻すのに時間はかからなかった。
「来週の日本海温泉&かにかにツアーは、池坂も参加するよな? 」
いかにも……な変わったネーミングだが、これでもれっきとした大手旅行社のコピーなのだから仕方ない。
仁太の声も次第に生気を帯びてくる。
「うん。参加するよ。だってそれは行かないと、みんなに迷惑かけちゃうしね。日本海温泉&かにかにツアー……」
「ちぇっ! その日までに池坂とラブラブになって、みんなに幸せなところ、見せ付けてやりたかったのによ」
さも残念そうに、仁太はフンと鼻を鳴らす。
「ラブラブ? 何、それ。勝手に妄想しないでよ。そういう吉山君こそ、チサの気持ちにそろそろ応えてあげればいいのに。吉山君とチサはとってもお似合いだと思うよ」
澄香と同期の畠元千沙こと通称チサは、仁太に好意を抱いているのだ。
仁太とて、チサに全く関心がないわけではない。
社内の全部署に澄香の同期は十二人いる。
そのメンバー内だけでも恋愛も含め、さまざまな人間関係が交錯している。
世の中、どうしてこうもうまくいかないものだろうと大きくため息をついたところで、澄香の携帯がブルルと震えた。
瞬間、仁太と目が合う。
その目はどこか寂しそうで、何か言いたげに彼女をじっと見つめているように感じる。
「今の、池坂のケータイだろ? さっさと見れば? 畠元が言ってたぞ。おまえ、そのメールの相手に片思いなんだってな? 」
「な、何よ。そんなの別にどうだっていいじゃない。きっと会社の誰かからのメールに決まってるもの」
明らかに挙動不審になった澄香は、今着信があったばかりのメールの送信者名を確かめ、パタンと携帯を閉じた。
仁太の乾いた視線を感じながら、慌てて隠すようにバッグに仕舞いこむ。
そして何もなかったかのように箸を取り、小鉢の白和えを忙しげに口に運ぶのだ。
仁太の言ったとおり、その送信者は。
澄香がずっと忘れられない、京都の。
あの人だった。