46.もういいかい? その2
「この子ったら失礼しちゃうわ。いくら地味だって言ってもそれなりにいろいろあったわよ。お父さん以外にもいっぱい交際の申し込みをされてたのよ。ああ、澄香に見せてあげたかったな、私の地味なりに輝かしい青春時代。それに遺伝とまで言うなら信雅はどう説明するの? 小学校の時から彼女がいて、その後も次々に女の子が入れ替わって……。それはそれで心配だけど、ちょっとは信雅と澄香が入れ替わってればよかったのにって思ったものよ。足して二で割ればちょうどいいでしょ? 」
母親の話は永遠に続きそうだ。
それに母親が引く手あまたで交際申し込みの嵐だったなんて話はかなり盛っていると思う。
最近、どういうわけか、口を開けばこの手の話になる。
反対されようがどうしようが、そろそろ一人暮らしを強行突破する潮時なのかもしれないと、澄香は切実に思い始めていた。
「そうそう、今日はね、澄香が中学生だった時にPTAの役員をしてたママさんたちとランチに行くのよ……」
全くお気楽なものだと失笑しそうになるのを堪える。
今でこそずっと家にいて、父親不在の小さな居宅を守っている母親であるが、澄香が大学を卒業するまでは、学費と家のローンの足しにとパート三昧の日々だったのだ。
少しくらいの息抜きも多めに見てあげるべきなのだろうと、軽く聞き流す。
三十分後には家を出ないと間に合わない。
このあとサラダを食べて、メイクを仕上げて、髪をセットして……。
澄香の朝食も次第にスピードアップする。
「澄香も知ってるでしょ? ほら、高校も一緒だった……」
そうそう、お弁当にフルーツも添えなくちゃ……と、澄香は母親の話を聞いているふりをしながら、出勤までの予定を細かくシミュレーションする。
「……やさん。彼女が車で迎えに来てくれるの。息子さん京都にいるんだってね。あまりこっちに帰って来ないから寂しいって。その点、お宅は澄香ちゃんがいるからいいわねって言われて」
澄香はサラダにフォークを運びかけて止まった。
今確か。母は、京都と言わなかっただろうか?
「京都? お、お母さん。誰の話ししてるの? 今、確かに京都って言ったよね? 」
何か大切なことを聞き逃したような気がして、あわてて母親に詰め寄る。
「言ったわよ。いやだ、澄香ったら、聞いてなかったの? しっかりしてね。だから、加賀屋さんが迎えに来てくれるって……」
「か、加賀屋さん? 」
母親の口からふいにこぼれ出た彼の名前に、澄香の心臓はドクドクと大音響を鳴らし始めた。
「そうよ。でね、大手の商社に就職したのはいいんだけど、出張が多くて世界中を飛び回ってるって言ってたわ。今もどこかに行ってるみたいなんだけど、面倒くさがって詳しく教えてくれないって、こぼしてた」
「へえ……そ、そうなんだ」
だめだ。声が上ずり、心臓が爆音を奏で始める。
なぜこのタイミングで、彼の話になんかなるのだろう。
「男の子ってどこも一緒ね。うちの信雅も同じようなものだから、我が家には女の子がいてよかったなってそう思う……って、澄香! もう行くの? ちゃんと最後まで食べなさいよ」
「わ、忘れてた。今日は、ちょっと。その……。会社に早く行かなきゃならないの」
もちろん、このまま母親の話を聞いていたかった。
宏彦のことなら何でも知りたい。
たとえそれがすでに知っていることであったとしても、他者から語られるあこがれの人の話題は、とても甘美で澄香の耳まで溶かしそうになるくらい心地いいからだ。
でも。いつまでもここにいたら、宏彦のことが好きだと母親に気付かれてしまうかもしれない。
そのうちに心の奥底まで見透かされそうで怖いのだ。
澄香は自分の部屋にもどり、大急ぎでメイクを整える。
そして、使い込んだ大き目のエナメルのバッグを手にして玄関に向った。
弁当にポーチに財布に……。
こうなったら弁当に添えるフルーツなんてもうどうでもいい。
その辺に転がっていたミカンをひとつポンと放り込む。
忘れ物がないか再確認して、はたと気付くのだ。
携帯の充電が切れていることに。
真っ暗な画面を見ながら、はあと、大仰なため息をついた。
会社に着くとすぐにデスクにあるコードに繋ぎ、携帯の充電を始める。
仕事用と兼用している携帯の特例で、会社での充電が認められているので、何も心配はない。
コードを付けたままメールの確認をするが、大して重要な用件もなくいつものように仕事を続けるのだが……。
社内の様子がどことなく普段と違うことに気付く。
何も変わりないはずなのに、男性社員が妙にハイテンションだったりするのは気のせい?
いつも気難しい顔の課長が、夕べは残業ご苦労さんなどと笑顔で言うものだから、返事に困った。