45.もういいかい? その1
その夜、澄香とチサは夜中まで飲み続けた。
アルコールに弱いチサは途中でウーロン茶に切り替えたが、何度も缶をコツンと合わせて乾杯をする。
木戸とさくらの婚約に、そして二日後に控えたチサのバレンタインデーの二度目の告白にと、祝杯をあげる……。
そして気分も最高潮になった頃、ちゃっかりチサのベッドにもぐりこみ、そのまま朝を迎えるのだ。
チサのマンションから会社までは目と鼻の先と言ってもいいくらい近い。
八時まで寝ても、出社時刻に余裕で間に合う。
たとえ昨日と同じ服のまま出勤したとしても、同僚たちは皆心得たもので、澄香ったらまたチサんちに泊まったんだ、ホント好きだね、お、さ、け……などと、朝の挨拶代わりにからかわれるのが関の山。
万が一、男性と夜を明かしたとしても、澄香を疑う者は誰もいないのではないかと思えるくらい、彼女のガードの固さは有名で、信用度に至っては群を抜いている。
もうそろそろ、その品行方正さを返上したとしても、誰にも文句を言われない年齢であるはずなのに、急激に生き方を変えるのはそんなに簡単じゃない。
昨日は思ってもみない来客に度肝を抜かれ、仕事どころではなかった分、今日は朝から書類の山に忙殺されていた。
オンラインの普及で以前に比べれば紙での決済は少なくなったとはいえ、ここは文具の会社だ。
全ての紙類が職場から消え去る日が日本中のどの企業よりも遅れるだろうことは簡単に想像がつく。
普段ほとんど残業をしない澄香も、今日ばかりはそうも言っていられない。
同じフロアの残業仲間で近所の店から中華のデリバリを頼み、夕食をとった後も商品受注の伝票の入力や発送の手配などでなかなかデスクから離れられず、日付が変わる直前にやっと家に帰り着くありさまだった。
澄香はあまりの疲労感に携帯の充電が切れたままであるのも忘れて、そのまま寝入ってしまったのだ。
そして迎えた二月十四日。
朝の情報番組を見ながら、しまったと顔をしかめた。
テレビの画面には、いつもの女子アナがにっこり笑って、高級チョコレートをさもおいしそうにつまんでいる映像が流れる。
「どうしたの? 仕事のミスでも見つかった? 土曜日だっていうのに、出勤、大変だわね」
コーヒーを飲む手を止めて、澄香の母親が訊ねる。
いつもなら朝の家事で立ち働いている母親も、土曜日の早朝は起きてこそいるものの、コーヒータイムでのんびりしている。
澄香の会社は、二月、三月は土曜日も出勤になる。
四月からの新年度に向けて、文具、事務用品の納品が多くなる時期でもあるので、それも仕方ない。
「あっ、いや、そうじゃないんだけど。今日はバレンタインデーなんだなあと思ってね」
「そうだわね。ついこの前、お正月だったのに、ホント早いわ。月日が経つのって」
と、澄香の真意とは多少ズレたところで、母親が同意の言葉を口にする。
やっぱ、ここのコーヒーはおいしいわねと付け加えながら。
「お母さんと話してると、なんだか調子狂っちゃうし。じゃなくて、あたしさ、お父さんと信雅にチョコ送るの忘れてたってこと、今思い出したの。どうしよう……。二人とも、きっとがっかりする思うんだ。とくにお父さんが……」
「あら、そうだったの? まあ、別にいいじゃない。風邪で寝込んでたんだし、仕事も忙しかったんだもの。買いに行く暇もなかったのでしょ? じゃあ、今度、二人が帰ってきたときに、適当なのを渡せば? それで十分よ」
「そりゃあそうだけど……」
この時期、父親と弟にチョコをあげるのはほぼ毎年の恒例行事になっているだけに、澄香は忘れてしまったことにショックを受けていた。
父親ときたら、よほど嬉しいのか、ホワイトデー近くの土日には必ず帰って来て、赤福餅と、パールのアクセサリーを母親の分と二つ買ってプレゼントしてくれるのだ。
英虞湾の真珠は世界一なんだ! と毎年同じ話を聞かされるのも慣例化されている。
「それに。いつまでも家族にばかりあげてたってしょうがないでしょ? チョコレートなんてものは、澄香の本当に大切な人に贈らなきゃ意味ないじゃない。ほら、前からちょくちょく顔を見せてくれる吉山さんだっけ。彼はどうなの? 素敵な人よね。男前だし、とてもいい人そうじゃない」
朝っぱらからいきなりストレートパンチを食らわす母親に、澄香は危うくトーストを喉に詰まらせるところだった。
「ちょ、ちょっと! お母さんっ。いきなり何を言い出すのよ! 吉山君はね、あたしとは何も関係ないの。いつも言ってるけど、彼はただの同期なんだってば。関東出身で関西の大学を出て神戸で就職してる人。それを言うならチサの方がお似合いなんだから……」
「チサさんと? なーんだ、そうだったの。てっきり澄香といい感じだと思ってたんだけど……。これも歳のせいかしら。最近、すっかり勘が鈍くなっちゃって」
仁太側からみれば母親の勘は決して間違ってはいない。
ただし、澄香にその気がないのだから、この話は進展のしようがないのだ。
「澄香……。そうやってぼんやりしてたら、どんどん周りのみんなに追い抜かれていくわよ。澄香はホントに誰もいい人がいないの? 」
「いないよ。残念ながら……。いたら今日なんて、朝からウキウキして、有給取ってるかも」
「そういえば昔から一度もいたためしがないわね」
「別にいいじゃない。お母さんだって、地味な青春時代だったよっていつも言ってるし。遺伝なんだから仕方ないの! 」