43.あたし、だまされませんから その2
「で、さくらさんは木戸君の教え子なのかしら? 」
「そうです。一昨年の春、高三になった時、先生があたしのいる高校に赴任して来て、野球部の顧問になって……。あたしはマネージャーやってたんです」
「そうなの……。それで? 」
「去年のバレンタインデーの時に……。ダメもとで先生に告白して、卒業してから先生と付き合うようになって、それで……」
「婚約したのね」
「はい……」
澄香は、携帯小説の舞台を地で行くようなさくらの行動力に頭が下がる思いだった。
高校時代、同級生の宏彦にすら気持ちを打ち明けられずにいたのに、よりによって先生に告白するなんてことは、当時の澄香には想像すらできるはずもなく、全く持って未知の領域でしかないことに驚きを隠せない。
恋は信じられないようなパワーを授けてくれるとでもいうのだろうか。
「そうだったんだ……。それで、最近木戸君が冷たいから、あたしと寄りを戻したんじゃないかって、そう思ったのね? 」
コクリと頷いたさくらの頬に、少しだけ赤みがさしてくるのがわかった。
「何度も言うようだけど、あたしは絶対に木戸君とは付き合ってないからね。過去にもお付き合いは全くないから。お願い、信じて。さくらさん。あなたは木戸君のこと、すっごく好きなんだね」
またもやコクリと頷き、まだ一度も見せたことのなかった笑顔が彼女の口元に少しだけ浮かんだ。
「ねえねえ、さくらさんとやら……」
突然話を割って入ってきたのは、ついさっきまで存在を消し黒子に徹していたチサだった。
「高校のセンセーってさ、結構忙しいんだよね? 」
メガネをはずしたチサが、テーブルに片方だけ肘をついて手のひらに顎を載せて言った。
「は、はい」
「実はさ、あたしの姉も教師やってんだけど……。特に三学期は、進級や大学受験なんかがいろいろ重なって、すんごく多忙なわけ。違うかな? 」
「はい。……そうみたいです」
「ならさあ。ちょっとくらい冷たくされたからって、すぐに浮気とか考えちゃうの、まずくない? 」
チサはいつの間にかさくらの手を握って、まるで姉が妹に諭すように話しかけている。
「大丈夫! あんたのカレは浮気なんかしてないって。あたしが証明してあげる。この澄香お姉さまはね、昔から、それはそれは大好きな人がいて、ずーーっとウジウジしてんの。いい年してそのカレとメールだけやって一喜一憂してんだからね。その人のことしか頭になくて、悪いけど、あんたのカレシには一ミリだって恋愛感情は持ってないのよ。だからね? さくらさんは何にも心配しなくていいんだからさ」
さくらは目を何度も瞬かせ、チサの話に聞き入っていた。が。
「ちょ、ちょっと! チサ。いくらなんでも、そこまで言わなくても」
チサの言ったことがいかに真実であるにしても、さくらに聞かせるにはあまりにも恥ずかしすぎる内容で、澄香はなりふり構わず慌てふためく。
さくらよりずっと年上の自分が、まだ中学生並の恋愛ステージにしか立てていないことを暴露されて、黙っていられるはずもなく。
「いいから、澄香は黙ってな! さくらさん。ご覧のとおり、あんたのカレと澄香には、なーーんもないから。安心してね」
そう言って愛嬌たっぷりの笑顔を振りまいたチサが手を伸ばし、さくらの頭をぽんぽんと撫でた。
するとさくらは見開いた目から大粒の涙をぽろぽろと流した後、張り詰めた糸が切れたかのように声をあげて泣き出してしまった。
「ごめんな……さい。あたし、なんでこんなことしちゃったんだろ。ほんとに、ごめんなさい。澄香さん、前に変なメール送ったの、あたしです。先生のケータイ、こっそり見ちゃって。そしたら、過去の澄香さんとのやり取りが残ってて。消さずに残しているって事実を知って、それであたし、てっきり先生が澄香さんのこと、まだ好きなんだと思いこんで。だから、だから……」
「さくらさん……」
泣きじゃくりながら何度も謝るさくらが、澄香の目にいじらしく映る。
不審なメールの出所も明らかになり、一件落着と言いたいところだが、澄香の中にじわじわと湧き上がって来る怒りの矛先は、さくらにではなく木戸に向けられていた。
こんなにも愛されているのに、木戸はいったい何をしているのだろうかと。
その時、突然こもったような携帯音が鳴り、まつ毛をぬらしたままのさくらがすみませんと言いながら、ショルダーバッグから携帯を取り出した。
はい、はい……と返事をして電話を切ったさくらは、食い入るようにその様子を眺めていた澄香とチサに向かって、恥ずかしそうに頬を赤らめ、たった今彼が新神戸に着いたとつぶやく。
彼女の母親から行き先を聞いた木戸が、夕方仕事を終えて新幹線に飛び乗り、迎えに来たということらしい。
チサはやってらんないとばかりに、その辺にあった雑誌をウチワ代わりにして扇ぎ始める。
確かに暖房が効き出しているが、そんなに設定温度が高いと言うわけでもない。
さくらのラブ度にあてられた、ということだろう。
時計に目をやるとまだ八時過ぎ。広島に向う新幹線はまだ何本かある時間帯だ。
澄香はほっと胸を撫で下ろし、さくらに言った。
「さくらさん、木戸君のところに行くんでしょ? 」
コートを手に取り、さくらに優しく微笑みかける。
「あっ、はい。今からすぐに行きます。今日は、ご迷惑をかけてしまって。本当にごめんなさい」
立ち上がったさくらが深々と頭を下げた。