41.先生に言わないで
「い、いいよ、チサ。大丈夫だって。そうと決まったわけじゃないしね。とにかく行ってみる。もし遅くなるようだったら、のぞきに来て。じゃ」
澄香は制服のベストの上に羽織ったカーディガンのボタンを下まできっちり留めて、背筋を伸ばし、一階のロビーに向った。
カウンター内には受付担当が二人いる。一人は同期のミユキだ。
美人ですらっと背も高く、それでいて気さくな面も持ち合わせた澄香の気の合う友人の一人でもある。
「澄香……。あの人が村下さん。仕事関係じゃないって言ってるわ」
ミユキはロビー隅の簡易ソファに座っている女性にそっと目配せをして、澄香に事の顛末を説明する。
「あの子、かなり若いわよ。それにちょっと危ない感じ。思いつめてるっていうか……。澄香、何があったか知らないけど、気をつけてね」
ミユキにますます不安を煽るような前置きを付け加えられ、足がすくむ。
澄香は大きく深呼吸をしてその人のところに一歩ずつ近寄って行った。
「あ、あの……。池坂、澄香さんですか? 」
先に声を掛けたのは、肩までのストレートヘアの似合う、和風美人な感じの切れ長の目をした若い女の子だった。
この人が村下さんなのねと初めて見るその女性を失礼のない程度にじっと見つめる。
女性と言うにはまだあどけなさが残り、ほとんど化粧もしていない白肌が、けがれを知らない少女の姿を誇示しているようで、澄香は少しとまどった。
「村下さん? ですよね。あの、よろしかったら、受付奥の応接室に行ってお話しませんか? 」
「は、はい」
消え入るような声で返事をしたその子は、うつむき加減になりながら澄香の後を付いて行く。
すると、運がいいのか悪いのか。
外で昼食を取って戻って来たばかりの何人かの社員とすれ違い、どうしたの? 何かあったの? と不思議そうな目を向けられる。
何も悪いことをしてないのに、いたたまれない気持ちになるのはなぜだろう。
まるで澄香が年下の女の子を冷たくあしらっているようにでも見えるのだろうか。
澄香は、少しでも早くその場から立ち去りたくて、歩くスピードを上げた。
応接室のどっしりしたソファに向かい合わせになるよう席を勧め、備えてあるポットと急須でお茶を用意して、村下の前に置いた。
「村下さん。改めまして、こんにちは」
澄香は目の前の少女にも見えるその来客に出来る限りの敬意を払い、立ち上がってあいさつをした。
するとその子ものっそりと立ち上がり、澄香と目を合わすことなく、こんにちはとぼそっとあいさつをする。
「今日はどういったご用件でこちらにお越しいただいたのでしょうか」
澄香は相手に合わせて腰を下ろし、気を取り直して、あくまでも社員としてのスタンスを崩すことなく応対を続ける。
「あ、あの……。す、すみません。こんなところまで押しかけてしまって」
突然視線をあちこちに泳がせたかと思うと、顔面蒼白のままオロオロして村下が言った。
「いえ、それは別にかまわないのですけど……。あなた、もしかして中学生か高校生なのかしら? 」
あまりにもぎこちない村下の態度と幼い外見に、澄香は自分の判断が間違いではないと確信したのだが。
「いえ、短大生です」
村下がすかさず顔をあげて、澄香をきっと睨み付ける。
「あら、ご、ごめんなさいね。とてもお若く見えたものだから。お気を悪くなさらないでね」
「いいんです。そ、その。いつものことですから……」
村下の虚勢も長くは続かない。
またすぐに視線を膝の上に落とし、口をつぐんでしまった。
澄香は自分の無礼を反省し、少しでも場をなごませようと、笑顔を向けてみる。
ところが逆効果だったのだろうか。
ちらっと澄香を見た村下は、ますます表情を硬くし、ひざの上のメッシュのバッグを指の色が変わるくらいに強く握り締めていた。
「む、村下さん。私に何か用がおありなんですよね? お聞きしてもよろしいですか? 」
相手の出方ばかりを気にしていては先に進まない。
澄香はお腹の底に力を入れて、単刀直入に訊いてみた。
「あ、はい。あの、あたし、実は。婚約してるんです」
澄香の顔が一瞬にして強張る。婚約? 誰と?
でもチサの言うように、この村下という女性がメールの送信者だとすれば……。
考えたくはないが、宏彦の婚約者ということも、なきにしもあらず……だ。
「ご婚約、ですか。それは、おめでとうございます」
澄香は営業スマイルをなんとか持続させて深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。それで、その……。先生があなたをまだ忘れられなくて……その、この先、先生の幸せを考えると、あたしは身を引いた方がいいんじゃないかと思って」
「えっ? どういうことですか? 」
澄香はこれでもかと言うくらい大きく目を見開いて、村下を見つめた。
何か話がかみ合わない。
身を引くとか、怖すぎる。
「ごめんなさい、村下さん。私にはあなたのおっしゃりたいことが何なのか、よくわからないんですけど。それに……。どうも会社で話す内容でもないようにお見受けするのですが」
澄香はもう少し村下との距離を縮めた方が要領を得やすいだろうと考え、肩の力を抜くことにした。
「ねえ、村下さん。今日これから時間あるかしら? 」
「はい。もう後期試験も終わったので大丈夫です」
「じゃあ、五時半にもう一度ここに来てくれる? その後、場所を変えてゆっくりお話を聞かせて。それでもいい? 」
「わかりました。そうします。……でも、この事、先生に……。木戸先生に言わないで下さいね。お願いします」
そう言って村下は立ち上がり、小さく会釈をして応接室を出て行った。
澄香は今村下が言ったことをもう一度繰り返してつぶやいてみた。
木戸先生に言わないで下さいね。
確かにそう言った。
澄香はがばっとその場に立ち上がった。
木戸ってあの木戸だろうか。
そしてあの子が。
木戸君の婚約者?
えっ? えっ? うそ!
澄香は頭の中が混乱していた。
そしてすっかり冷めてしまった湯飲み茶碗をがしっと掴むと、ごくごくといっきに飲み干した。