40.受難の日々 その2
「ど、どうしたの? 何が大変なの? 」
澄香はチサの急激な態度の変化にとまどう。
「何がって、澄香。今週の土曜日だよ。とっても大事な日でしょ? 」
そんな大事な日があったっけ? と思案顔になる澄香に、チサはあきれたようにパッタリと口を閉ざす。
「ち、チサ……。土曜日って何かあった? 」
「本当に、わからないの? 」
「そうだ、わかった! 前に言ってた映画か芝居の初日だっけ? 」
チサは無言のまま、微動だにしない。
つまり澄香の答えは全くの見当違いなのだろう。
「じゃあ……。神鍋でスノボ、とか。……って、やっぱ違うよね? その……。わかんないよ。他に何か予定でもあった? 」
風邪をひいている間に、何か大事な予定を取りこぼしていたのだろうかと不安がつのる。
すると、チサがやれやれというように首を横に振り、両手をテーブルについて身を乗り出す。
「澄香、土曜日は十四日だよ。二月十四日」
「二月十四日……。あっ! ば、バレンタインデー? 」
澄香はようやく事態が呑み込めた。
そうだ。バレンタインデーだったのだ。
「別名、あたしのふられ記念日、とも言うんだけどね。澄香もヒロヒコ君にあげるんでしょ? 札幌で仕事なら、渡すのが遅れても仕方ないか……」
「チサ、ちょっと待ってよ。彼には何もあげないし! 渡す理由なんてないもの。三重にいる父と、東京の弟に送るだけだよ」
澄香はきっぱりと言い切った。
「ええ? なんで? あげればいいじゃん。あんなに仲いいのに。ヒロヒコ君、喜ぶって。それはそうと、イケメンの弟君も元気? 」
「うん、多分ね。正月もバイトとか言っちゃってさ、こっちに帰ってこなくて……。きっとカノジョの方が大事なのよね、神戸の家族よりも」
五歳年下の異質な弟は、現在東京で一人暮らしをしながら大学に通っている。
澄香と違い異常なまでのモテ体質で、女性から恨みや反感を買わないか心配でならないというのが、姉としての悩みだったりもする。
「弟君、チョコいくつもらうんだろうね。段ボール山盛りとか……。そんなモテ男は放っといて、澄香はヒロヒコ君にあげるべきだね。うじうじしてないで、この辺でビシッと決めちゃいなよ! 」
「チサ……。だから、彼には彼女がいるってわかってるんだよ。なのに……。渡せるわけないよ」
「そりゃあ、そうかもしれないけど。でもまだそうと決まったわけじゃないし。澄香ったら、ホント、生真面目だね」
今までにもチョコをあげたことなど一度もないのだ。
なのに、彼女がいると知ったばかりの今回のバレンタインデーに、たとえ義理チョコであっても渡すことはためらわれる。
「それよりチサ。今年も吉山君にあげるんでしょ? 」
「うん。まあね。せっかく予約してるんだし、無駄にするのももったいないでしょ? 」
「そうこなくちゃ! もしかして……。カニ旅行で何かいいことあった? 」
その瞬間、ポッと頬を染めたチサが恥ずかしそうに俯く。
「おまえのチョコ、待ってるぞ、って言われたんだ。あいつ、澄香のことは、まだ完全にあきらめたわけじゃないみたいなんだけど、自分の立ち入る隙はこれっぽっちもないって、やっとわかったんだって。澄香。あたし、吉山君が振り向いてくれるまで、がんばることに決めたんだ」
「もう十分に振り向いてるって。吉山君ってさ、チサといる時、すっごくいきいきしてるよね。本当の自分を出せるっていうか。けんかだって、仲がいいからこそ出来るんだし。あたし、応援するから……あれ? 」
突然休憩室の内線が鳴り、会話が途絶える。
チサが素早く手を伸ばし受話器を取った。
「はい、もしもし。畠元ですが。……あ、池坂ですね。おります。お待ち下さい」
チサは受付からと言って、澄香に受話器を渡した。
会社のロビーに受付カウンターがあり、来客があった時などはこうやって呼び出されることもあるのだが。
今日は誰とも約束などなかったはずだ。
澄香はスケジュール表を片手に受話器を握る手に力をこめた。
「はい、代わりました。はい。……はい? で、では、すぐにそちらに伺います」
受話器を元に戻した澄香に、チサが何? といぶかしげに訊ねる。
「誰か来てるって。村下とか言う人。若い女性らしいんだけど……」
澄香には何も心当たりがなかった。
もちろんアポイントも取ってはいない。
いったい、誰?
食べかけの弁当を片付け、休憩室を出る。
その時チサが後ろから澄香の背中をポンと叩いた。
「ねえねえ、あたしの推測なんだけど」
チサが真剣な眼差しを向ける。
「何? 」
「前に澄香が言ってたよね。変なメールのこと」
「う、うん」
「そいつかもしれない……」
「それって、今来てる人が、そのメールの張本人ってこと? 」
澄香の顔が強張る。
「そう。もしそうだとしたら、修羅場かも。ねえ澄香。あたしも一緒に行こうか? 」
チサが真顔でそう言った。