3.ミズナ その1
口を閉ざしたままの二人を乗せたエレベーターが、五階に停止する。
目の前に現れたその店は、昭和の時代にトリップしたような、どこかなつかしい感じのする小料理屋だった。
やよい、と流れるような行書体で書かれた店の名前が鮮やかに染め抜かれている浅葱色の暖簾をくぐり、中に入る。
店内は意外にもしんと静まり返り、自分たちが一番乗りであることを知る。
カウンター横の壁にはビール会社のポスターがジョッキを手にした女優の笑顔と共にそこにぺたりとくっついていた。
テープの貼ってあるところが薄茶に変色して、月日の経過を密かに物語っている。
女将だろうか。三十代前半くらいの小柄な色白美人が、忙しそうに手元を動かしながらカウンターの中から仁太に声をかけた。
「いらっしゃいませ。まあ、吉山さん。お久しぶりやね」
「おお、ヤヨイさん、久しぶりっす! 年が明けてからは今夜が初めてかな? 」
「そうやったかしら。去年は、ほんまにお世話になり、ありがとうございました。今年もよろしくお願いします」
一瞬仕事の手を止めたヤヨイさんが、仁太に向かって深々とお辞儀をする。
その一連のしぐさがとても自然で、それでいて、大人の女性をしっかりと演出しているように見えた。
まさしく、はんなりとした女性とは彼女のような人のことを言うのだろうと思った瞬間でもあった。
「今年もがんがん通いますからね。よろしく! 」
仁太の威勢のいい声が店内に響く。
「まあ、嬉しいわ。いつもおおきに。でも……。吉山さん、こんなところにばっかり来ててもええの? 若い人には、もっとふさわし場所がいっぱいあるやろに……」
「ここがいいんです。ヤヨイさんの料理は一度食べたら忘れられない。ついつい、ここに足が向いてしまうんです」
そんな二人の親しげなやり取りに、自分だけ蚊帳の外におかれたような疎外感を感じた澄香は、仁太の誘いを受けてしまったことを早くも後悔し始めていた。
「あら、今夜はかわいらしいお客様もご一緒やねんね。お客さま、お飲み物は何にしましょか? 」
優しそうな笑顔と人好きのするのんびりとした柔らかい関西弁の話し声とは裏腹に、料理の手際のよさは天下一品であることが見て取れる。
澄香の前には、あっという間に箸と小皿が並べられ、いつの間にか白和えの盛られた小鉢がちょこんと左脇に添えられていた。
「んじゃあ、俺はビール。池坂は? 」
「えっ? ああ、飲み物ね。じゃあ、あたしもビールで」
言い終わるや否や、もうすでにグラス二個とビールの大瓶が一段高くなったカウンターに差し出され、何お出ししましょ、と注文まで促される。
「たこの酢の物と、揚げだし豆腐。あと、今日のオススメで」
「今日のオススメは、蕪のスープ煮やけど。それでよろしい? 」
「うわー。うまそっ! じゃあ、それ二つ。池坂は? 他に何か食いたい物はない? 」
「そうね。なら、ミズナのサラダとみそ田楽をお願いしようかな? 」
それを受けて、ヤヨイの顔がぱっと輝いた。
「若い女の子が来てくれるとなんや嬉しいわ。ミズナのサラダは、常連さん、あんまり注文してくれへんからね。この店のミズナは、しゃきしゃきしてて、葉の部分も緑が濃いいん。だから言うて、硬いこともないし。京都から取り寄せてるんよ」
「京都から、ですか? 」
その地名に敏感に反応した澄香は、密かに頬を赤らめた。




