38.命の恩人
目の前が黄色くなっていく。足にも力が入らない。
ジーという耳鳴りを聞きながら、ドアの向こうにチサと仁太の姿を確認した……のだが。
澄香の記憶はそこで、ぷつっと途絶えた。
次に彼女が目を開けた時、すでに二階のベッドの上に横たわり、目の前には心配そうに覗き込む馴染みの顔がふたつ並んでいた。
「おい、池坂。大丈夫か? 」
「澄香。わかる? チサと吉山君だよ。それにしてもすごい熱。さっき玄関で倒れて、彼と二人でここに運んだの。勝手に上がっちゃってゴメン」
「そ、そうなんだ。ありがと……」
自分のおかれている状況が次第に明確になっていく。
助けてくれたお礼をきちんと言うために、後ろ手をつき、起き上がろうとするのだが、身体が言うことをきかない。
「ダメダメ。寝てなきゃ。このまま意識がもどらないようだったら、病院に運ばなきゃって言ってたところなんだから。ところで澄香のお母さん、まだ留守なの? 」
「う、うん……」
掠れた声でかろうじて返事をする。
「確か、お父さんも具合が悪いんだよね。お母さんも大変だね」
父親の具合は大分良くなっているのだが、まさか将来の一人暮らしに備えて、意地を張って一人でがんばっているとも言えずに、うん、まあね、とお茶を濁す。
「澄香ったら、ここんとこ、ずっと辛そうだったもんね。無理したんじゃないの? 」
「池坂、我慢強いのもほどほどにしろよ。あっ。前の土曜日……。ハーバーなんかに行くから風邪引いたんじゃないのか? おまえの身体、冷え切ってたろ? 」
そこまで言って、仁太はしまったと言うように顔を歪めるが、もうすでにチサの怒りの炎を焚き付けた後だった。
「よ、し、や、ま……。あんた、澄香になんかした? なんで身体が冷え切ってたとか、わかんのよ? ねえ、なんとか言いなさいよ! 」
「あっ……。そ、それはその……」
「ほんっとに、どうしようもないんだから! 澄香には大事な人がいるんだよ。そこんとこ、よーーく考えなさいよ。全く、嫌になっちゃう。なんであたし、こんな奴にずっと気持ち傾けてるんだろ。もう今年のバレンタインは、あんたにチョコあげるの、やめよっかな……」
「ああ、結構だよ。おまえがくれなくても、俺はちっとも痛くもかゆくもありませんから」
「強がりばかり言って。どうせ、後輩から義理チョコもらって、鼻の下伸ばすのが関の山なんでしょ? 今年はネット通販で有名なあのチョコ、吉山君にあげる予定だったのになあ……」
「ほう……。そう来ましたか。どうせおまえ、俺以外にあげる相手いないんだろ? 予約してんなら、無駄にならないように、俺がもらってやってもいいぜ」
「ふん。あんたにあげるくらいなら、澄香と一緒に食べる方が百倍もマシ! 」
「何、強がってんだよ」「そっちこそ! 」「おまえこそ! 」
澄香の枕元で二人の攻防戦は果てしなく続く。
チサは去年のバレンタインデーに仁太に告白して見事に振られたにもかかわらず、二人の関係は疎遠になることはなかった。
それどころか、澄香の目にはよりいっそう仲が良くなったように映っていた。
確かにあの時、仁太は澄香を抱きしめた。
でもそれは彼女自身にも隙があったのだ。
泣いている女性を、それも好きな女性を目の前にして、手を差し伸べない方がどうかしている。
澄香は仁太の潔白を証明するため、話を聞いてもらおうと、チサの服の袖を軽く引っぱった。
「ち、チサ。ゴメン。吉山君は、悪く……ない……から。あたしが、悪い……の」
なんとかして誤解を解こうと思うのだが、声がかすれてうまく伝わらない。
「だから……ね。二人とも、もう……。けんか、しないで……」
ようやく澄香の想いが通じたのか、チサが彼女の手を握って、穏やかな目を向ける。
「澄香ったら……。こっちこそゴメン。ここでけんかなんてしてる場合じゃないよね」
「ごめん。悪かった。俺も、つい、ムキになってしまって」
仁太もバツが悪そうにチサから目を逸らし、首の後ろを掻きながら、ぺこっと頭を下げる。
「吉山君、どうしよう……。みんなも待ってるし、そろそろ行かないと」
チサが時計を見て、慌て始めた。
「そうだな。で、どうする? 池坂のこと」
二人の会話に胸騒ぎを覚えた澄香は、自分だけ取り残されるのではないかと、次第に焦り始める。
「あ、あたしも、連れてって。もうすぐ……熱も下がるよ。だから。ね? お願い」
澄香は、なんとか一緒に連れて行ってもらえるよう、熱っぽい潤んだ瞳で、懇願するような眼差しを二人に注ぐ。
「澄香、あんたは今回の旅行は無理しなくていいよ。いや、絶対、行ったらだめだって! いい? ちゃんと身体直して、それから会社にも来ること。わかったわね! 」
澄香はしぶしぶうんと頷く。
「そうだな。池坂はこのまま動かない方がいい。あああ……。残念だけど、これじゃあ行けないし、仕方ないよな。でも畠元。こいつの看病どうするんだ? 親もいないんだろ? こりゃあ一人じゃ、無理なんじゃねえか? なんなら俺、ここに残って看病しようかな……」
「って、あんた。何言ってるの? それならあたしがここに残るわよ! このオオカミ男! 」
せっかく収まったはずの二人の言い争いが再燃する。
「ふ、二人とも、心配してくれて、ありがと。あたしは、大丈夫だから……。そうそう、高校時代の友達のマキにだって、頼めるし……」
澄香はできるだけ笑顔を作って、二人にそう言った。
「ほんとにいいの? そうだ! なんならヒロヒコ君に言ってみなよ。今日、カレ、仕事休みでしょ? 実家だってすぐそこって言ってたし。京都だったら電車でも車でもすぐに飛んで来れるし。澄香のためならどんな手段を使ってでも一目散に駆けつけてくれるって」
「チサったら……。そんな冗談ばっかり言って。彼は今、北海道だよ。それにあたしは彼女じゃないんだし……。そんなこと、頼めるわけないよ。ふふふ……」
相変らずのチサのぶっ飛び発言に驚きながらも、今の澄香には力なく笑うのが精一杯のリアクションだった。
「ヒロヒコか誰だか知らないけどよ、池坂の一大事にも知らんフリする奴のことなんて放っておけよ。よしっ! 俺が明日旅行の帰りにここに寄るからな。だからそれまでじっと寝てるんだぞ。いいな! 」
仁太が心配そうに澄香を見て、額に触れようと手を伸ばす。
あともう少しというところで、チサの有無を言わせぬ睨みが、仁太の動きを一寸手前でピタッと止める。
仁太は、あはははと力なく笑いながら、澄香の目の前で止まったその手を引っ込めた。
「あ、ありがと、吉山君。チサも、もう行って。みんなによろしくね。二人ともほんとにありがと……」
仁太の優しさも、チサの気遣いも、澄香にはとてもありがたかった。
でも、チサの言うとおり、仁太に看病をしてもらう筋合いはない。もちろん、宏彦にも。
「じゃあね、澄香。心配だからさあ、何かあったらメールしてね。あたしはいつだって飛んで帰って来るからね」
澄香が持っていくはずだったビンゴ景品を携えて、二人が去っていった。
澄香はベッドの上で二人の後姿を見送りながら、会社の同期メンバーたちが澄香のことなど気にせず、安心して旅行を楽しんでもらうためにはどうすればいいのか、すでに答えを見つけていた。
意地を張るのをやめればいいのだ。
三重にいる母親にSOSの電話をかけたのは、その後すぐのことだった。