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かくれんぼ  作者: 大平麻由理
本編
38/210

37.最悪なコンディション

 うたた寝から目覚めて澄香が自分のベッドに入ったのは、深夜の二時ごろだった。


 ソファで眠ってしまったのがいけなかったのだろうか。

 背中や首のあたりがズキズキと痛む。

 でも疲れていたせいか、痛みを感じながらも徐々に意識が遠のいてゆき、七時の目覚まし時計のアラーム音で、いつもどおり目ざめることができた。


 コーヒーを飲み、みかんをひとつ食べる。

 母親が買っておいてくれた食パンは、結局封を切ることは無かった。


 職場に向う途中、電車の中では、どんなに空いていてもドアのところに立っていることが多い。

 ほんの数駅だ。いつもなら苦にならないはずなのに。

 今日はどういうわけか、無意識のうちに、シートに腰を下ろしていた。

 天井に揺れる派手なバーゲンのつり広告も今朝は見る気がしない。


 映画にもなった病院もののミステリー小説もバッグに入ったままだ。

 もう数ページでトリックが暴かれるというところまで辿り着いているにもかかわらず、取り出すことはなかった。


 けだるさを感じながらも職場に着き、なんとか仕事をこなし、決まった時刻に会社を出る。

 その日は駅前のスーパーで材料を調達し、自分のためだけの一人鍋を作ると決める。

 念のため、栄養ドリンクも添えてみた。

 そのお蔭か翌日は少し気分がよくなったような気がした。


 澄香の母親は三重に行ったきりまだ戻ってこない。

 近所の本屋でのパートを辞めてからは、こうやってまとまった期間、父親の元へ身を寄せることがしばしばある。


 インフルエンザにかかった夫の看病という大義名分を掲げて、二日酔いと失恋の痛手を負った哀れな娘を半ば置き去りにするように姿を消した母親だが、それもまあ、夫婦仲のいい証拠だとあきらめざるを得ない。

 鬼の居ぬ間に洗濯……と、母親の留守は大歓迎だったりするのだが、体調の芳しくない今回ばかりは親のありがたみがひしひしと身にしみる。


 ところが、そろそろ一人暮らしがしたいと思っている澄香にとって、ここで弱みを見せるわけにはいかない。

 ほーらみろ、一人では何もできないじゃないと家を出ることに反対されかねないからだ。

 思うようにならない身体にムチ打って最低限の家事をこなし、恒例の宏彦とのメールのやり取りをしてベッドに入る。


 ところが今年になって体調のことだけでなく、もうひとつ気になることがあった。

 ベッドに入った後もそのことでなかなか寝付けない日もあるくらいに。


 それは知らないアドレスからの意味不明なメールだった。

 澄香は自身の携帯を仕事用も兼ねて使っているため、登録番号以外の着信拒否設定をしていない。

 以前ほどではないにしても、イタズラっぽい内容の迷惑メールも紛れ込むことがある。


 最初は気にせずに無視を決め込んでいたのだが、あまりにも頻繁になったため、とうとうこのアドレスを着信拒否にして事無きを得てはいるのだが……。

 どうもその送信者というのが、澄香をよく知っている人物のような気がして、不気味さが拭えないでいた。


 澄香の名前はもちろん、職場のことも詳しく知っている。

 でもその相手から伝わるメッセージには、全く心当たりがない。


 彼のことをあきらめてください、だの、アドレスを替えてください、だの。

 かと思えば、あたしではダメなんです、澄香さんでないと……とか、先生を捨てないで、とか。


 もちろんそれはすべて同一人物から届くのだ。

 昼ドラの域を超えるような切羽詰った内容のオンパレードで、次第に笑って済まされるようなものではなくなって来ていた。


 澄香には付き合っている相手はいない。

 すなわち、嫉妬される所以も無いわけだ。

 私の恋人をとらないでとか、あるいは、やっぱりあなたでないとみたいな文面が繰り返されるばかりで、怖いほどの真剣さが伝わってくる。


 澄香が関わっている男性といえば、毎日メールを交わす宏彦くらいのものだ。

 仁太とも誤解を招く接点が全く無いとはいえない。

 ただし女の勘をもってすれば、どちらも関係ないように思える。


 その送信者が女性であることは容易に想像できるのだが、文体がかもし出す雰囲気が、十代後半の女の子のようなイメージなのだ。

 それと、幾度となく登場する先生という人物からもわかるように、澄香の身近には先生と称する人間はごくごく限られているし、宏彦も仁太も先生ではない。

 誰のことなのか皆目見当もつかないが、その若い送信者が、澄香を恋愛の三角関係の一角に見据えているのは間違いない。


 身に覚えの無いことに振り回され精神的にも苦痛だったのだが、まさかもうこれ以上は何も起こらないだろうと自分自身に言い聞かせ、アドレス変更もしていない。

 もちろん着信拒否をして以来、不可解なメールはすっかりなりを潜めている。


 明日は土曜日だ。

 会社の同期との親睦旅行を目前にして、ますます動きが緩慢になる身体を奮い立たせ、カバンに着替えを詰め準備を整えていた。

 ところがその日の身体の異変は尋常ではなかった。

 寒気を通り越して悪寒が走り、食事もほとんどのどを通らない。

 まさかとは思いながらも、澄香は救急箱から体温計を取り出す。

 子供の頃から使っている電子体温計は、瞬く間にピピピと音を鳴らし、体温が上昇しきったことを知らせる。


「はちど……ごぶ……」


 三十八度五分のデジタル表示を目にしたとたん、身体じゅうの力が抜け落ちたようになり、這いつくばるようにしてベッドにもぐりこんだ。

 そんな状況の中でも宏彦にメールを送るのだけは忘れない。

 ただし、とても短いものだったが。



 加賀屋君、ごめん。

 風邪ひいたみたい。

 熱があるので今夜はもう寝るね。

 オヤスミ 



 その後、風邪の対処法などをこと細かに返信してきた宏彦のメールに、意識が朦朧としていく中であっても、心が癒され満ち足りていく。

 どんな万能薬よりも、宏彦の一言が効き目があるように思える。

 燃えるような身体の暑さを感じながらも、澄香はいつしか眠りについていた。



 何かが聞こえる。それはよく聞き慣れた音で、とてもリズミカルなもの。

 トントン、トントンと何かを叩く音も聞こえる。


 はい、はい、今行くから……などと夢うつつで、ベッドの中から返事もしている自分がいた。

 そして同時に、枕の下からくぐもったような携帯の呼び出し音が鳴っているのに気付いた。


 澄香はやっとのことで目を開けたが、天井がゆらゆら揺れて、身体もふわふわと浮遊しているような感覚に包まれる。

 手探りで鳴り続ける携帯を探し出し、関節がきりきりと痛む指先で通話ボタンを押した。


『すみか! 何してるの? 早く出てよ。 あたし、チサ! 』


 携帯の向こうで何やら騒がしい声がする。そうだ。チサの声だ。


「ち、チサ。どうしたの? こんな早くから……」


 澄香はけたたましく電話口で叫ぶチサを訝しがる。


『何寝ぼけたこと言ってるの? 今何時だと思ってるのよ。いいから、早くここを開けて! 』


 澄香は時計を見た。そしてそのままベッドの下に視線を向ける。

 カート式の旅行カバンがゴロンところがっているのが見えた。

 徐々に頭がクリアになってきて……。


 次の瞬間、ありったけの力をふりしぼって上体を起こし、身体をあちこちにぶつけながら、よたよたと玄関に向かって降りて行った。


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