35.チサの暴走 その1
宏彦の返信を待って、もう何分くらい経ったのだろう。
澄香もチサも、何も言わずにただじっと携帯を見ていた。
周りのざわめきもこの瞬間だけは何も聞こえない。
モノクロームの景色がゆっくりと視野の片隅で動いているのが感じられるだけだった。
まだだろうか。
愛する人の確信に迫る返事を待つのがこんなに辛いものだとは、今まで考えてもみなかった。
昼過ぎに宏彦のメールを見て以来、電話をかけても繋がらないままだ。
そして、いつ来るとも知れないメールの返信を息を殺してじっと待っている。
これまで他愛のない話題であっても、いつもすぐに返事を返してくれていた宏彦に、感謝の気持ちでいっぱいになる。
あたりまえだと思っていたことが、そうでないと気付いた時、彼への想いがますます募っていくのだ。
ならば……。
宏彦も同じような気持ちで昨夜から澄香の返事を待っていてくれたのだとしたら……。
ない。そんなこと、あるはずがない。
澄香は大きく頭を振り、ふっと息をつく。
チサと顔を見合わせ、意味もなく引きつったような笑顔を浮かべた時、着信音が鳴った。
素早くそれを手に取る。
澄香は胸の鼓動を身体全体で感じながら、急激に温度を失った動きの鈍い指先で、携帯を握りしめ文面を表示させる。
確かに彼からの返信だ。
そこにあったのは、宏彦にしては長めの文章だった。
向かいの席から目を輝かせ澄香の真横に移動してきたチサに、携帯を預ける。
「なになに……。『やっと返事がもらえたよ。今までこんなに待たされたことはなかったから、本当に心配した。昨日の帰り道にどこかで倒れたんじゃないかとか、家で寝込んでるんじゃないかと気になって生きた心地がしなかった。夕べ、なんとしても探し出すべきだったと後悔してる。澄香、逃げ足早すぎだろ? メールもらった後、キミのことが気になって、花倉と手分けして北野から三宮まで探したけど追いつかなかった。時差ぼけがなければ、すぐに捕まえられたのにと悔やんでも仕方ないが。それと待ち合わせの件だけど、澄香に話しておきたいことがあったんだ。また日を改めてちゃんと話すことにする。じゃあな。いつものようにメール待ってるから』 って、澄香! あんた夕べ、彼に追いかけられてるし! 」
チサはやってられないとでもいうように、手のひらを上に向けて、まるで海外ドラマの主人公のように大げさに首をすくめて見せる。
「ねえ、澄香。もう一度、よーーく読んでみなさいよ、その文章! 」
そう言ってチサは澄香に携帯をつき返し、元の自分の席に戻った。
「わ、わかった」
澄香は言われたとおり、初めから一文字ずつなぞるように読んでいく。
「そうだったんだ……。彼とマキがあたしを探してくれてたんだね」
澄香は、じんわりと胸が熱くなるのを感じていた。
「あたし、とんでもなくみんなに迷惑かけてたんだ。せっかくの同窓会の日に、なんて嫌な女だったんだろう……」
初めは宏彦のメールに安堵と充足感を得ていたのに、次第に自己嫌悪へと変わっていく。
「澄香ったら、なにしょげてるのよ。ヒロヒコ君、メール待ってるって言ってくれてるよ」
チサが澄香の背中に手をやり、元気付けるように声をかけてくれる。
「うん……。でも。会って話したいことって、一体何? メールで言えないことって……。やっぱ、怖いよ。これ以上、何も知りたくないかも」
澄香が落ち込んでいくのとは反対に、チサは生気あふれる顔になる。
「あーーん、じれったいったらありゃしない! ちょっとそれ貸して! 」
携帯を奪い取ったチサが、瞬く間に何かを打ち込むと、一瞬だけ澄香にそれを見せ、すぐに送信ボタンを押した。
目にも留まらぬ早わざとは、きっとこのことを言うのだろう。
「ち、チサ! なんてことするの? ダメだよ。そんなことしたらっ! 」
澄香は目に見えない電波を手繰り寄せて、即刻送信されたメールを元にもどしたい衝動に駆られる。
「もうほーんと、イライラするんだから。よーく見てなさいよ! 」
チサは送信済みメールを表示させ、澄香の焦点などお構いなしに、彼女の鼻先に触れんばかりに画面を近づける。
「ほら、見なさいってば! 」
こんなメールのやり取りを
アンタのカノジョに見られたら
ヤバイんじゃないの?
バレて騒がれたら、ちゃんと
責任とってよ! スミカより
「どう? こんな風に送っておいたから。これくらい言ってやんないと男って鈍感だからさ。らちが明かないわよ! 何が今度会った時話すよ。もったいぶってめっちゃいらいらする。さっさと事を運びなさい! 」
チサはフンと鼻を鳴らし、勝ち誇ったように腰に手をやる。
澄香はすでに絶望的な気分になっていた。
アンタとかヤバイとか責任とってとか、そんなストレートで感情的な文は今まで一度も送ったことがない。
これが池坂澄香の本性だったのかと、宏彦に嫌われるのも時間の問題だ。
ああ、もうおしまいだ……。
澄香はテーブルの上に両手をのばし、そのまま力なく突っ伏した。