34.チサの妄想
「もうっ、澄香ったら。あたし、電話をもらう直前までマジ爆睡中だったんだから。まだ一時間はゆっくり出来る予定だったのにさ。いったいどうしたって言うのよっ! 」
休日の寝溜めを唯一の楽しみにしているチサは、ブツブツ言いながらもバッチリメイクで、三宮センター街にある待ち合わせ場所にやって来た。
「チサ、本当にごめんね。夕べも、そして今日も」
澄香は出来る限りの低姿勢で両手を合わせ謝る。
「ほーんと、澄香にはまいった、まいった。何があったか知らないけどさ。知らないけどさ……」
チサは意味ありげな目で澄香をちらっと見る。
すべてお見通しということなのだろうか。
「あたしったら、チサやみんなを振り回しちゃったみたいで……。反省してるから。ホントにごめん。ここは、あたしのおごりね」
澄香はさっと立ち上がり、お代わり自由のドリンクバーでチサの好きな甘いホットミルクティーを選びペーパーカップに注ぐ。
トレイに載せてテーブルに運び、チサと自分の前に置いた。
酔っ払いながら軽いノリで親睦旅行の宴会係を引き受けたことに始まり、仁太に家まで送ってもらうまでのあれこれをこと細かにチサに教えてもらい、がっくりと肩を落とす。
おまけに自分を見失うまで飲んでしまった理由も見事に言い当てられて、再びどん底まで落ち込む。
ならば話は早いと、澄香は宏彦のことを洗いざらいチサにぶちまけた。
「そっか。ヒロヒコ君、彼女がいるんだ……。それは厳しいね。でもさあ、もうこの先メールできないって言われたわけじゃないんでしょ? 」
「それはそうだけど……」
「なら全然大丈夫じゃん。今朝の呼び出しだって、別の理由かもよ。実は澄香と付き合いたいとか。彼女とは別れるから、とかね」
チサはテーブルの上に両肘をついて手のひらに丸い顔を載せながら、突拍子もないことをさらりと言ってのける。
「へ? 何言ってるの? ないよ。そんなこと絶対にあるわけないし」
「そう? 結構よくあることだと思うけどな」
澄香がいくら否定しても、チサには届かない。
チサは自分の判断に自信を持っているのだろう。
「だって、みんなの前で交際宣言をしたも同然なんだよ。カノジョがいるってね。なのに、あたしと付き合いたいだなんて、そんなことありえないに決まってるし! 」
そうだ。そんな二股はこっちから願い下げだ。
「じゃあ、こんなのはどう? 彼女ってのが、実は澄香のことなの。メールのやり取りだけで繋がっている心の恋人。素敵じゃない? 今日のあたし、ちょっと冴えてるよね? 」
チサが天井方向に目をやり、にんまりしながら満足そうに深く頷く。
「却下! 」
澄香は間髪を要れずに否定する。
いくらなんでも、そんな都合の良すぎる話があるわけがない。
澄香もその辺のところは、必要以上に常識的だったりする。
「なら……。これだと、どうかな? 」
ちょっとムスッとしたチサが、新たな妄想を披露しようと身を乗り出す。
「ふーーん。で、何? 」
全く無視するのも悪いので、澄香は適当に相槌を打ち、聞き流す準備も忘れない。
「だからさ。ヒロヒコ君ったら、ついつい口から出任せで、彼女がいるって言ってしまったのよ。それで、収拾が着かなくなって……。手短なメルトモ澄香に相談しようと思って呼び出した! 」
「はあ? それって、次の同窓会でみんなにおごるのが嫌だから、間に合わせの彼女になってって頼もうとしたってこと? 」
「間に合わせって……。あたし、そこまで言ってないよ。でも、まあ、そういうニュアンスで」
「……あのねえ、チサ。そりゃあ、そんなこともありかもしれない。でも彼はそこまで女性に困ってないって。あたしじゃなくてもいいわけだしさ。会社にもいっぱいかわいい子がいるだろうし。だからありえないって言ってるの! 」
澄香はふうっとため息をつく。
「じゃあ、ヒロヒコ君。なんで澄香を呼び出したって言うのよ! 澄香ったら人の話をちっとも聞かないんだし」
自分の意見をことごとく否定されたチサの頬が、ぷうっと膨む。
「なら答えをお教えしましょう。ずばり、もうあたしとはメールのやり取りは出来ない、って言いたかったんだと思う。大学一年の時から六年間、いろいろとありがとう……。なんて言われちゃったりするんだ。あははは」
澄香はできるだけ明るくそう言った。
チサなりに澄香を思って一生懸命考えてくれているのだし、これ以上心配をかけたくなかったのが第一の理由だ。
それに、昨夜仁太に送ってもらったことも、ずっと心に引っかかっている。
チサは多分知らないだろうけど、ハーバーランドでキスされかけた記憶もまだ生々しい。
割り切れない思いを抱えたまま、そろそろ買い物に行こうと座席から立ち上がりかけた時。
テーブルの上の澄香の携帯が、小さく着信音を鳴らす。
チサが穴が開くように携帯をじっと見つめて言った。
「ヒロヒコ君じゃないの?」 と。
澄香はびっくりしたように大きく目を見開き、携帯を手に取り送信者を確かめる。
そして。
「チサの言うとおり。加賀屋君からだ……」
澄香は文字を追いながら、小さく声に出して読んでみた。
画面を覗き込むチサにも聞こえるように。
「『さっき電話くれたみたいだね。今東京駅。もし寝ているのなら悪いからメールにするよ。まだ具合が悪いのか? それとも怒ってる? どうして返信してくれない? 今朝もぎりぎりまで待った。来てくれると思ってた。俺が夕べあんなこと言ったから? やっぱり怒ってるんだろ? ああ、感情的になってしまった。ごめん。もし身体の調子が悪いのならそれだけでも知らせてくれ。とにかく返事待ってるよ。』……だって」
澄香は読み終えると、そっと携帯をポケットに戻した。
そこにはもちろん、もうメールはできないなんて文はどこにもない。
彼女の存在も全く感じられなかった。
「ねえ澄香。やっぱり彼には、澄香以外の女性の影は見えないんだけど……。ともあれ早く返事しなきゃ。それで呼び出された理由をちゃんと聞くこと。いいわね! 」
澄香はいつになく素直にこくりと頷くと、再び携帯を取り出しいっきにメールを打ち始める。
加賀屋君、時間通りに
カフェ・Sに行けなくて
ごめんね。
思った以上にぐっすり眠ってて
着信に気付かなかった。
身体はもう大丈夫。
心配かけて、本当にごめんなさい。
ところで、何か用だったのかな?
文面を整え送信ボタンを押し、うまく届くようにと祈る。
本当はもっとストレートにいろいろ訊きたかった。
彼女がいるのかいないのか。いるのならどんな彼女なのか。
そして自分を呼び出した理由も詳しく知りたい。
でも。真実が澄香を奈落の底に突き落とす結果になるとわかっていながら、そんなこと、訊けるわけがない。
静かに鎮座する澄香の携帯に二人の熱い視線が注がれる。
怖い。足の震えが止まらない。
手をぎゅっと握り締め、宏彦の返信を待った。