30.夜の観覧車 その1
「池坂……。いったいどうしたんだよ」
澄香を見つけるなりそばまで駆け寄ってきた仁太が、ほっとしたように大きく息を吐き立ち止まる。
「なあ、池坂。こんな寒い日に、ちゃらちゃらスカートなんかはいちゃって。その上、なんで今ごろ、ハーバーにいるわけ? 」
仁太はためらうことなく腕を伸ばし、澄香の頬に伝った涙の跡をそっと指でなぞる。
「う、うん。ちょっとさ、いろいろあってね。……さっきはゴメン。泣くつもりなんてなかったんだけど、一人でこんなとこにいると、なんだか心細くなっちゃって……」
ふっと笑みをこぼした仁太の視線が、強がっていることなどお見通しとでも言うように澄香を捉え優しく見つめる。
いつになく熱いまなざしを感じた澄香は、本能的に一歩後ずさり、いつまでも頬から離れない仁太の指をそっとよける。
「あ、ごめん」
「ううん」
澄香はうつむいたまま、小さく首を横に振る。
「何があったか知らないけど、一人ぼっちが寂しくて畠元に電話したってことか? ったく、しょうがねえな。なあ、池坂の例の男はどうしたんだよ。今夜、一緒だったんだろ? 」
澄香に払いのけられ、行き場を失った手をコートのポケットに押し込みながら、仁太が面白くなさそうに訊ねる。
「……だから。いつも言ってるでしょ? あたしの男とか、そんなんじゃないって。ただのともだ……」
ただの友達だよ……と最後まで言い終わらないうちに、澄香は突如視界を失った。
あろうことか、仁太に抱きしめられていたのだ。
それは、あまりにも想定外で、澄香はただ彼に身を任せることしか出来ない。
突然すぎる。
でも仁太の胸がこんなにも広く温かいことを初めて知った澄香は、何もかも忘れさせてくれそうなこの胸に、そして支えてくれるこの腕に、このままもうしばらくこうやって包み込まれていたいと思った。
次の瞬間少し身体を引き離され、仁太の瞳の中に澄香の姿だけが映っているのが見えた時、次第に彼の顔が近付いてくるのがわかった。
澄香は大きく目を見開いた。
そして、危険を察知したような信号音が、彼女の耳元にカンカンと鳴り響き、咄嗟に下を向く。
仁太は、あっ、とかすれたような声を漏らし、彼女の背中に回していた腕をそっと離した。
「ご、ごめんな。つい、その……」
俯いた澄香の頭上で仁太の声が震える。
「あ、あたしこそ……ごめんなさい。吉山君の気持ちはとても嬉しい。でも、その。こういうことは、違うと……思うの」
澄香はたとえ一瞬でも、仁太の優しさに甘えようとした自分を恥じていた。
仁太が取った行動は、少しも間違ってなんかいない。
澄香にわずかでも仁太を想う心があれば応じればいい。そういうことだ。
だが、澄香は出来なかった。
自分の心を偽ることは良心がどうしても許さなかったのだ。
「わかってるよ。池坂が俺を見てないってことは……。ははは。俺の想い人が落ち込んでいる隙に襲っちまおうなんて姑息な手段を使おうとした自分が馬鹿だったんだ」
「吉山君は悪くないよ。あたしがこんなだから……。ほんとにごめんなさいね」
「謝るなよ。もういいって」
仁太は身体を翻し、闇夜にそびえたつポートタワーに向かって大きく伸びをする。
そして、行くぞとぼそっとつぶやいた後、駅に向かって歩き始めた。
澄香は仁太との距離を身体ひとつ分以上空けて、後をついて行く。
やわらかいガス燈の灯りに照らされて出来た仁太の影は、次第に薄くなって、周りの暗闇に溶けていった。
横を走り抜けていく車のウィンドウに光の輪が反射する。
振り返って夜空を見上げると、海沿いの観覧車のネオンが、ただひたすら闇の中に光のグラデーションを放ち続けていた。
そのまま神戸駅から明石方面行きの電車に乗り、みんなのいる新長田の居酒屋に向う。
そこには澄香の同期が七人ほど集まっており、仁太が戻ってくるのを今か今かと待ち構えていたのだ。
土曜出勤の仁太を交えての飲み会は、すでに六時ごろから始まっていたらしい。
ハイペースで飲んでいたチサは、もうすっかり出来上がっていて、テーブルに突っ伏してぐったりしていた。
「チサ。チサったら。しっかりしてよ」
澄香は周りが放っておけというのも聞かず、チサの背中を揺り動かす。
「あーーらしゅみかちゃーん。いっらい、ろこにいっれらのーーお? 」
タイミングよくチサが顔を上げたと思えば、呂律の回らない口調でそれだけ言って、またテーブルにパタンと上半身を沈めた。
夜のハーバーランドって、本当にきれいなんですよ。
ガス燈通りの夜景は、これまた絶品。
ネット検索すると様々なサイトで写真が公開されているようです。