29.涙のハーバーランド その2
すれ違うのは腕を組んだ二人連ればかり。
今までにも幾度となく出くわした光景なのに、たった一人で海側に向かって駆け下りる自分が、無性にみじめで情けなく思える。
それは澄香が今までに味わったことのないような例えようのない寂しさだった。
腕を組む相手がいなくても、宏彦のメールが彼女の心の支えだった昨日までは、道行くカップルを見ても羨ましいとも何とも思わなかったのだ。
いつの日か心を通わせた相手とそんな風になれたらいいなくらいの軽いあこがれの気持ちしかなかった。
でも、今夜宏彦の口から直接彼女の存在を聞いてしまった以上、もうメールも続けられない。
いつ彼女に知られるともわからない状況で、誤解を招くようなメールのやり取りは極力避けるべきだろう。
彼のためにも、そして彼の彼女のためにも、余計な女はとっとと彼の前から消えるべきなのだ。
途中、中山手通りの交差点を西向きに曲がり、三宮とは違う方向に歩みを進める。
どこかでこの気持ちを落ち着かせなければ、到底このまま家に帰ることなどできない。
公共放送局の建物を右手に見ながらトアロードを海側に向って下っていく。
そして大丸前の交差点を渡り、元町商店街のアーケードをコツコツと靴音を響かせながら西に向って歩いていた。
時計を見ると、まだ八時前。
西に進むほど、シャッターを降ろした店が増え、人通りもまばらになる。
いつしか商店街を抜け、人気のない中央郵便局のビルを曲がった後、ハーバーランドまで来てしまったことに気付くのだ。
海沿いの遊園地にある観覧車のネオンが、色取り取りのカラーを放ち、夜の幻想的な空間を静かに演出しているのが、澄香の目にぼんやりと映った。
澄香はモザイクの東側のデッキに立ち、ポートタワーとホテルのライトアップを眺めながら、旅行雑誌の写真と一緒だ、などと思い、頬を緩ませる。
なるべく目の前の現実的なことを考えて、宏彦の面影が澄香の脳裏にしのびよるのを阻止しようと試みる。
彼という大きな支えを失くした今、澄香には哀しみしか残されていない。
しかし、ここで泣くわけにはいかない。
この冷たい北風に、今までの宏彦に対する全ての想いを吹き飛ばしてもらうためにも、決して泣くわけにはいかないのだ。
ふと周りを見渡すと、ここでも肩を寄せ合う恋人同士ばかりが目に入る。
携帯を二人の前に掲げて自撮りを楽しむカップルや、暖かい飲み物を交互に分け合って飲んでいる仲睦まじい二人連れが否が応でも視界に飛び込んでくる。
まるで一人でいる自分がここにいる資格がないようなそんな錯覚すら起きてしまうくらい、周囲は幸せなオーラで包まれている。
澄香は冷え切った手でおもむろに携帯を取り出し、同僚のチサに電話をかけてみた。
今夜は会社仲間で、来週の終末にある同期旅行の打ち合わせを兼ねた飲み会があるはずだ。
今からでも間に合うなら、合流させてもらおうと澄香はかすかな期待を胸に通話ボタンを押した。
『もしもし……。池坂? 池坂だよな』
「う、うん。そうだけど。あれ? チサじゃないのかな? あたし、かける人、間違えたのかも」
確かに今澄香は、チサの電話番号を表示させて通話ボタンを押したはずだ。
なのに全く違う声が聞こえてくる。
それもよく知っている男性の声だ。
『どうした? 同窓会、終わったのか? ならこっちに来いよ! 今新長田で飲んでる』
その声は間違いなく、吉山仁太のものだった。
「えっ? 吉山君なの? どうして? チサは? 」
状況が呑み込めない澄香は、目の前をよこぎる船を見ながら、真相の解明に努める。
『いるぜ。気持ち良さそうに酔ってやがる。みんなもいるし、池坂も来いよ。今どこ? 三ノ宮か? 』
いつもは耳障りでしかない仁太の声が、妙になつかしく、澄香の胸に温かくしみわたっていく。
「あの、ハーバー、ランド」
『ハーバー? どうした。なんでそんなところにいるんだよ。おい、池坂、おいっ! 』
澄香は、あくまでも普段どおりに、ちゃんと声に出して言おうとしたのだ。
酔いを醒ますために風に当たっているだけだと。
楽しかった同窓会もとんとん拍子に終わり、そちらに合流したいのだと……。
思いがけない仁太の声に、今まで張り詰めていた糸がプチッと切れ、堪えていた涙が堰を切ったように零れだす。
『おい、いったい何があったんだよ! 泣いているのか? そこどこ? ハーバーのどこだよ! 』
「も、モザイクの……一階東側のデッキの……ところ」
『わかった。絶対、そこ動くなよ! すぐに行くから』
澄香は半ば呆然としながら、電話を切る。
あたしったら、何を言ってるんだろ。吉山君が来てしまうよ。
そんなつもりじゃなかったのに。
泣いてる場合なんかじゃないのに……。
澄香は自分の取った軽率な行動を後悔し、あわてて涙をぬぐう。
そして、風の当たらない建物の陰に身を潜めるようにして、仁太が来るのを待った。
仁太の気性を知り尽くしている澄香は、彼が疾風のごとく、すぐにここにやってくるだろうことを信じて疑わなかった。
ただの同僚なのに。
それも、親友が大切に思っている人なのに。
澄香は彼がもう間もなくここに来てしまうだろうことに、安堵と焦りと、そして恐怖すら覚える。
息を切らせた仁太が、いつものように鼻を真っ赤にさせながら澄香の前に現れたのは、それからきっかり二十分後のことだった。
読んで頂きありがとうございます。
やっちゃいました。おもいっきり場面は神戸です。
地図を追いながら、こんなのあり? って自問自答しながらも、真冬の長距離移動を書いてしまいました。
でもね、北野からハーバーランドまでは、結構歩けちゃうんです。下りですからね。
次に登場するのは……。