2.澄香と仁太 その2
「……ったく、なんでそんなに逃げ足、いや、帰るのが早いんだよ! なあ、今夜こそ付き合ってよ。ね? 軽く一杯でいいから」
澄香の目の前に立ちふさがり両手を合わせて拝む男。
吉山仁太、二十四歳。同じく独身。
澄香に入れ込んでもうすぐ二年。
食事に誘い続けて一年。ダメ元で澄香に声をかけ、気の毒にも撃沈を繰り返す。
「吉山君。何度も同じこと言わせないで。この後、ちょっと用事があるの。悪いけど、あたし帰る」
「わかったよ。わかったから……。じゃあ、こうしよう。池坂のその用事とやらが終わるまで、俺、どこかで時間つぶしてるから。その後一時間だけ、いや、三十分だけでいいから俺に付き合ってくれよ。誘うのも今夜で最後にするから。な? 哀れな吉山に、一度だけ。たったの一度でいいから、夢と希望を与えてはくれないか? 」
───今夜で最後にする。
ほんとうだろうか。
もういい加減、この不毛なやり取りにうんざりしていた澄香は、腕を組み、しばし思案顔になる。
これまではこの目の前の男の誘いを、ことごとく断り続けてきたのだが。
それも今夜で最後となると、話しは違う。
澄香は、黒目がちな瞳で、チラッと仁太を盗み見た。
ヒールを履いた澄香と並ぶと、あまり違わない背丈のこの男は、スーツの上にコートを着ているにもかかわらず、それでもまだ寒いのか手を口元に持ってゆき、はあっと息をふきかけて何度もこすり合わせている。
昨夜雪混じりだった雨が、六甲の山頂付近では完全な雪だったのだろう。
朝、電車の窓から見た山並みは、空に近い部分が白く輝き、そこだけ雪国を思わせるような光景だったのだ。
今夜もかなり冷えている。
整った顔立ちにそぐわない仁太の鼻は、近くのネオンに負けないほど真っ赤に色付いていた。
そうだ。
クリスマスはとっくに終わっているのに、まるで歌の中に出てくるトナカイのようじゃないか。
皆の人気者であるところまで一緒だったりする。
どこまでも滑稽なその姿に、ついついうっかりと笑みをこぼしてしまった澄香は、あきらめにも似たため息をひとつ漏らし、仁太に向かってゆっくりと口を開いた。
「じゃあ、今夜だけよ。それも一時間だけでよければ……」
よっしゃーっ! とガッツポーズを決めた仁太は、すかさず澄香の腕を取り、そのまま引きずるようにして三宮駅の北側の東門筋に向かって強引に歩き始めた。
「ちょっと待って、離してよ! 話が違うわ。あたしは先に用事が……」
「んなもん、嘘だろ? いつものように、俺の誘いを断るための嘘。こんな願ってもないチャンス、俺は逃すつもりはないからね」
いつもふざけてばかりいる男のたまに見せる真剣な眼差しは、どんな一言より効き目がある。
仁太の本気を感じ取った澄香は、ついに観念して抗う事をやめた。
緩みっぱなしのでれでれした笑顔を貼り付けたこのどうしようもない同期の男に、あろうことか、今度は手を繋がれていた。振りほどこうとしてもびくともしない。
「ねえねえ、どこに行くの? 」
「いいからいいから。俺にまかせろって」
いつしか雑居ビルの狭いエレベーターの中へ無理やり押し込まれ、彼の目指す目的地へと瞬く間に運ばれて行った。