21.卒業の日 その5
「池坂……」
澄香は名前を呼ばれてはっと我に返った。
木戸がチラッと澄香を見ると、すぐに駅の外に視線を移し、コーヒーを一杯だけ付き合ってと、ぼそっと言い捨てた。
木戸はそのまま駅の山側に向かってすたすたと歩き始める。
澄香も遅れまいと小走りで後に続いた。
信号を渡り、山側に向かう。
澄香は木戸がどこに向かっているのか、まだ検討もつかない。
海側にあるセンター街ならお手の物だが、山側はちょっぴり大人の領域だ。
高校を卒業したばかりの澄香にはまだまだ未開拓の地が多い。
北野なら歩いたことがある。
けれどそこは、恋人同士で歩きたい場所だ。
澄香は北野を男性と二人きりで歩くのなら、その相手は木戸ではないと思っている。
すると、歩き始めて間もなく、大通り沿いのコーヒーショップにすっと木戸が入って行った。
加納町の交差点までも行かない場所だ。
少しためらったが、澄香も続いてその店に入って行った。
どうして木戸について来てしまったのだろう。
じわじわと後悔の念が押し寄せるが、さっきの宏彦の懇願するような眼差しを思い出すと、このまま帰るわけにはいかないくなる。
お願いだから木戸を悲しませないでやってくれと、彼の目が訴えていたように思えるからだ。
親友の恋を応援するのは友人としてあたりまえのこと。
澄香がマキの恋愛を一緒になって喜ぶように、宏彦も木戸の恋の行方を案じているのだ。
とうとう宏彦に自分の思いを告げることは叶わなかったけれど、言わなくてよかったとも思っていた。
もし告げていたならば、宏彦は木戸と澄香の間に挟まれて、身動きが取れなくなってしまったかもしれない。
挙句、木戸との友情にヒビが入ってしまうところだった。
これでよかったのだ。
コーヒーの苦い香りが鼻先をかすめる。
木戸が、注文したコーヒーをトレイに二つ載せて、片手で持ちながら階段を上って行く。
澄香はふうっと息を吐き出し、唇をぎゅっと閉じた。
木戸と会うのは今日で本当に最後なのだからと自分に言い聞かせ、満席の一階を横目に、二階へと続く階段を一歩ずつゆっくりと上がって行った。
二階席はまだ半分くらいしか埋まってなかった。
窓際の席に着くと、お互い無言のままコーヒーを飲み始める。
澄香は木戸を目の前にしながらも、さっきの宏彦の手のぬくもりの余韻が頭から離れない。
歩いている間もずっと彼のことばかり考えていた。
こんなにも宏彦が恋しくて仕方ないのに、目の前にいる人物は……彼ではない。
先にこの沈黙を破ったのは木戸だった。
コーヒーカップを置き、澄香をじっと見つめる。
そしておもむろに口を開いた。
「池坂……。君の心が誰にあるか、俺が気付いてないとでも? 」
「えっ? 」
カップを持つ手が止まり、心臓がどくどくと鳴り始める。
木戸は突然、何を言い出すのだろう。
澄香は木戸の何か決意を秘めたような鋭い眼差しに縛られ、視線を逸らすことが出来ない。
「加賀屋は親友だ。誰がなんと言おうとそう思ってる。でもそれとこれとは話が別だから。俺は君をあきらめないし、あいつに君の気持ちを伝えるつもりもない」
「き、木戸君……」
「それに君も知ってると思うけど、片桐先輩は、真剣に加賀屋のことを思っている。でもあいつは先輩をどう思ってるのか、俺にもまだわからない……。加賀屋も君のことが好きなのかとも思ったけど、俺に協力してくれるあいつを見てると違うのかなとも思う。今、こうやって君と俺を二人にしてくれたのが、あいつの答えだと……そう思ってる」
木戸はきっぱりとそう言った。
今、木戸と二人で向かい合ってここにいることが、全ての答えなのだと。
澄香もわかっていたのだ。
宏彦はただの昔馴染みとして自分を気にかけてくれていただけだということを。
それ以上でも以下でもない。
木戸は、九州の大学に推薦で決まったこと、そして、休みに神戸に帰ってきたときに会って欲しいなどと淡々と自分の要望を伝える。
澄香はまず、大学合格おめでとうと言った後一呼吸おき、しっかりと木戸の目を見て気持ちを告げた。
「ごめんなさい。木戸君とはこれっきりにしたいの。もう二人だけで会うことは出来ない。あたしは、木戸君が言うように、加賀屋君のことが好き……なんだと思う。でも、今こうやって木戸君と二人で話をしていることが、加賀屋君の出した答えだと言うのなら……。辛いけど、それはちゃんと受け止めなきゃいけないなって、そう思う」
「そうか、もう会えないか……。俺のこと、そんなに嫌い? 」
意を決して宏彦への思いを目の前の彼の親友告げたにもかかわらず、木戸はそんなことはまるで聞いていないかのようなそぶりで訊ねる。
「えっと……。そ、その。嫌いとかそんなんじゃなくて。どうやって説明したらいいのかな。あたしにもよくわからないんだけど、とにかく付き合えないの。多分この先も気持ちが変わることはないと思うから」
「それは、加賀屋をあきらめられないってこと? 」
木戸はコーヒーカップをガチャっと音を立ててソーサーに置き、冷ややかな口調でそう返してきた。