先生、好きです その5
「今夜は何と言って家を出てきたんだ? ご両親は心配していなかったか? 」
木戸は今一番気になることを訊ねた。
こんな遅くに、と言ってもまだ夕方の六時過ぎだが、高校を卒業したばかりの彼女にとっては、そんなに気安く外出できる時刻ではないと思ったのだ。
でも彼女はきょとんとした顔をして、え? と首をかしげた。
「いや、だから。こんな遅くに出てきて、お父さんやお母さんは心配していないのか? 」
もう一度同じことを訊ねてみる。
やはり彼女の両親の反応が気になるのだ。
娘をたぶらかせる新米教師はどこのどいつだと憤っているかもしれないなどと考えると、まるで犯罪者にでもなったかのように臆病な自分が顔を覗かせる。
「先生、どうしてそんなこと聞くんですか? まだ六時過ぎですよ? 今どき、中学生だってまだ帰ってないです」
「そ、そうか? 」
もちろんそんな中学生もいるだろう。
塾に通えばもっと帰宅が遅くなる場合もある。
けれど木戸が訊きたいのはそんなことではない。
子どもの事を心配しない親はいない。
彼女の両親がどのような心理状況にあるのか知っておきたかった。
「そうですよ。先生だって高校生を卒業した頃、五時や六時に家に帰っていましたか? 」
「それは、ないが……。でも俺は男だし」
「そんなの関係ないです。男だって女だって、十八歳にもなればいろいろ都合がありますから。それにうちの両親は二人とも仕事だし。父は毎晩遅いし、母も八時か九時ごろ帰って来て、夕食作りやら持ち帰った仕事やらで、ずっとバタバタしてるんです。あたしが帰っていようがいまいが、そんなこと何も気にしていません。あの、あたし、これでも家では優等生で通っているんです。両親を煩わせたことは一度もありません。彼らにとってあたしは、手がかからない良い子なんです」
いつしか彼女の声から抑揚が消え去り、棒読みのようになっていく。
親のことを彼らと言ってしまうあたり、何か言いようのない閉塞的なものを感じてしまうのだが、単なる思い過ごしだろうか。
「じゃあ、今夜のことは何と言って……」
「別に何も。向こうも聞かないし、あたしも言わない。それだけです。だから先生、何も心配しないで下さい。あたしのことは自分できちんと責任持ちますから」
「そ、そうか……」
どういうことだろう。これが本当にあの村下なのだろうか。
常に言葉少なに野球部マネージャーとしての役割を果たし、女の部分など微塵も見せなかった彼女が、今まさに大人の女性として木戸の前に現れたと言ってもいいくらい、彼女の変貌振りに目を見張る。
いや、それとも、これが本来の村下の姿であって、高校時代の彼女をもっとしっかりと見ていれば、とっくに気付いていたかもしれないのだ。
これは、彼女を表面的にしか見ていなかった自分の落ち度なのかもしれないとも思う。
何も心配しないで下さいなどと、逆に気を遣わせてしまった。
彼女は仕事で忙しい両親に育てられ、意識レベルで親に甘えることなく早くから自立していたのかもしれない。
こんなに小さくて細い身体で寂しさも辛さもすべて背負い込み、一人で考えて生きてきたのだとしたら、それはある意味、木戸にとって衝撃的な事実だった。
果たして男である自分が、そこまで自立できていただろうかと自問自答してみる。
両親に甘え、姉に頼り、友人に支えられ……。
何一つ胸を張れることなどありはしないのだ。
大見得を切って大学で一人暮らしを経験したが、それは予想以上に寂しく虚しい物で、どうして神戸を離れてしまったのだろうと後悔の日々だった。
所詮、現実からの逃避だったのだ。
高校時代、好きになった人に振り向いてもらえず自暴自棄になった結果、神戸を離れ新天地で学業に励もうと決めたはずだったのに、何もかもが中途半端に終わってしまった。
大学では、肝心の野球もレギュラーに選ばれることはなく、バイトも続かない。
ついには単位の修得も危なくなってしまい、付き合っていた年上の彼女とも数ヶ月で別れてしまった。
軌道修正してやっとのこと卒業の見込みが立ち、四年生になり慌てて就職活動を開始する。
野球部で世話になった先輩に勧められるがままに教員採用試験を受け、なんとか教師という職にありつけたものの、何が何でも教師になるんだと強い意思があったわけでもなく、同期たちともその熱意に温度差を感じ肩身の狭い思いもした。
木戸はそんな不甲斐ない自分を振り返りながら、夜の帳が下りる街中を西に向かって車を走らせて行った。