先生、好きです その4
そんな一途な彼女に向かって、自分はなんてひどいことをして来たのだろうと、後悔ばかりが押し寄せる。
夏の合宿中に誕生日を迎えた時、これも村下の采配だったと思うが、部員全員から、誕生日おめでとうございますの言葉と共に花束をもらったことがあった。
その時にある部員から、先生、彼女いるんですか? といきなり強烈な質問を受けたことがあった。
正直に今はいないと答えても、彼らは引き下がることはなかった。
最後には、カノジョ、カノジョとコールが起こり、収拾がつかなくなってしまったのだ。
その時の村下の悲しそうな顔は今でも忘れられない。
当時は、新任監督があまり年も変わらない部員たちに冷やかされているのが気の毒で同情してくれているのだろう、くらいにしか考えていなかったのだが、村下の気持ちを知ってしまった今になって思えば、それは彼女にとって耳を塞ぎたくなるような質問だったに違いない。
部員たちの騒動を静めるためには、肯定するしかもう道は残されていなかった。
木戸はとうとう彼女がいると答えてしまったのだ。
もちろん、学生時代にそれなりに付き合った女性はいた。
けれど木戸がイメージした相手女性は、池坂澄香だった。
池坂を脳裏に思い浮かべながら、部員たちの前で彼女がいると宣言してしまったのだ。
すると不思議な物で、彼らはすぐに追求をやめ、瞬く間に落ち着きを取り戻す。
別に監督の彼女など詳しく知りたくもないのだ。
ただ白状させることのみが彼らのレクリエーションだったのだろう。
けれど村下は違った。
事あるごとに、先生の彼女はどんな方ですかと訊ねてくる。
生徒に対してどこまで話せばいいのかためらわれたが、高校時代に出会い、今も時々会っているのだと誇張して話してしまった。
今までに会った誰よりもきれいな人で、心も優しくいつも笑顔を絶やさない人だと。
池坂にはたまにメールするくらいで会うことなど全くないのに、さも付き合っているかのように話してしまう。
そんな自分に酔っていたのも事実だ。
村下は、なぜかその話をする時はいつも笑顔だった。
楽しそうに池坂のことを訊いてきた。
長かった髪を切ったのもこの頃だった。
池坂の髪の長さを訊いてきた時期と重なるのは、何を意味するのか。
今になってやっとそれも理解できる。
当時の村下の心中など察しようもない木戸は、彼女の優しさに甘えて、池坂のことを自分の彼女として自慢げに話していたのだ。
村下はそんな自分を許してくれるだろうか。
池坂とは高校時代にあっという間に別れて、今はもう付き合ってなどいないと言うのを、信じてくれるのだろうか。
何としても誤解を解きたい。
木戸は自分のついてきた嘘を謝り、もう一度スタートラインに立って村下と真正面から向かい合ってみたいと決意を新たにした。
「村下」
木戸は助手席の窓を下げて、花壇のそばで待っている彼女に声をかけた。
「あ、先生。こんばんは」
木戸の心臓がどきっと反応した。
制服やトレーニングウェア以外の私服姿を見るのは今日が初めてなのかもしれない。
村下は薄手のダウンコートの下に長めのスカートをはき、髪のすき間から見え隠れするイヤリングを揺らせながら胸元で小さく手を振る。
そして窓に顔を寄せて話し始めた。
「まさか、本当に先生が来て下さるなんて思ってなかったんです。昨日のあの電話は夢だって。絶対に夢なんだって自分に言い聞かせていました。だって、期待してて会えなかったら、悲しいでしょ? 出来るだけ今日のことは考えないようにしていました。やっぱり会えないよって、先生から電話があるんじゃないかと思って、びくびくしてました。でも本当だった。先生のこの白い車が見えた時、もう信じられなくて。夢じゃないんですね? これは本当に今起こっていることなんですよね? 」
「いいから。さあ、乗って」
「あ……。はい。ごめんなさい」
しまったというような顔をして、彼女が口をつぐむ。
卒業式以来、久しぶりに会ったというのに、ぶっきらぼうな声で、その上刺々しい言い方しか出来ない自分が嫌になる。
けれど、とにかくここから早く立ち去りたかった。
在校生に会うかもしれないし、職員に見られる可能性もゼロではない。
そんなリスクを考えると、ここでのん気に彼女と会話を続けるわけにはいかないのだ。
「寒かっただろ? 早く、車に入って」
運転席から左手を伸ばし手早くドアを開けた木戸は、今度は精一杯優しい声で彼女に中に入るよう促した。
おじゃましますと言って助手席に乗り込んできた彼女は、予想以上にとても小さかった。
目の位置も肩の位置も低い。
運転席からは見下ろすような形になる。
すぐに駅前を離れ、国道に出て西に向かった。
絶対にここだと決めている場所があるわけではないが、学校から離れた隣の市に行くことだけは、何があっても変更する気はない。
数年前に学区制が廃止され、木戸の勤務する高校には全県内から生徒が通学してくる。
なので、たとえ隣の市であっても生徒に会わないという保障はないが、遠方から通う生徒は少ない。
会わないことを祈るばかりだ。
あと五分も走れば市境を通り越す。
交差点を過ぎたところでふっと肩の力が抜けていくのがわかった。




