先生、好きです その2
「先生、あの、これ」
村下が俯いたまま、白っぽい小さな紙袋を木戸の前に差し出した。
「これは……」
木戸はまさかと思いながらその袋を受け取った。
今日はバレンタインデーだ。あちこちでカップルが大量に生み出される特別な日だというのは、もちろん周知している。
冷やかし半分でチョコを渡しに来る生徒集団や、あるいは、義理人情に溢れた奇特なクラスの女子生徒たちからの感謝チョコは、すでにほぼ無理やり手にねじ込まれるように渡されている。
そういえば、人生経験豊富な先輩教師から、いつも高い戸棚にある資料を取ってくれてありがとうと、箱詰めのままの板チョコ十枚を、ドーンともらったのはつい数日前の出来事。
だが今回の村下のように、よく知った身近な生徒から一対一で渡されるのは初めての経験だった。
「あ、ありがとう。いいのか?」
教師が学校で生徒からこのような物をもらってもいいのだろうか…… 。
まずは基本的な部分で受け取ることに迷いは生じるが、伝統を重んじる反面、自由な校風が特色でもあるこの高校で、バレンタインデーのチョコ配布並びに受け取り禁止令は今のところ発令されていない。
木戸は半信半疑で村下からチョコレートらしき物を受け取り、彼女の真意を測るべく向き合った。
「先生、受け取って下さって、ありがとうございます。あの、いらないって返されたらどうしようって、ずっと迷ってました。でも、今年のバレンタインデーにはどうしても先生にチョコを受け取ってもらいたくて。だって、もうすぐ卒業するし、先生に会えなくなってしまうから。先生には、その、彼女さんがいるっていうのも、わかってるんです。けれど、それでも、あたしの気持ちもわかってもらいたくて」
「村下……」
「いいんです。別にあたしの気持ちが先生に届かなくても、それでもいいんです。先生に、あたしのことを忘れずにいてもらえるだけでいいんです」
「そうか。まあ、その、僕は教師という立場だし、君の気持ちに応えるのは……」
「あ、それ以上は言わないで。あたし、先生の立場もちゃんと理解してるつもりですから。でもこれだけは言わせてください。あの……。先生、好きです……」
そう言ってぺこっと頭を下げた村下は急に走り出し、瞬く間にその場からいなくなってしまった。
「おい、村下!」
木戸の引き止める声も虚しく、村下の姿はもうどこにも見当らない。
慌てて北校舎から外に出る。
さっきより一層激しくなった雪が、冷たい風と共に木戸の頬に吹き付ける。
「うっ、さむ……」
小さな紙袋を小脇に抱え、ぶるっと身震いする。
こんな雪の中を、村下は自転車を押して家まで帰るのだろうか。
木戸は今いる位置から遠く対角線上にある校門付近に視線を向けた。
けれど降りしきる雪にさえぎられて、そこを歩く人影が村下であるのかどうかは確認できない。
部活を早めに切り上げた他の生徒達も次々と下校していく中、村下だけを呼び戻すことは不可能だと悟った木戸は、とぼとぼと職員室に向かって行く。
そして、村下が発した言葉をもう一度脳内で反芻してみる。
先生、好きです。
あまりにもストレートすぎる告白に胸が痛む。
生徒が身近にいる教師にほのかな恋心を抱くのはよくあることだと聞く。
現に卒業生と結婚した教師は幾名か存在する。何も珍しいことではない。
けれど、まさか彼女が自分に対してそんな思いを抱いていたなんて、今の今まで気付くことはなかった。本当にびっくりした。
彼女に特別優しくしたこともなかったし、どちらかと言えば、慣れない担任業務と部活動の指導に振り回される余り、短気で無愛想な面ばかりを見せていたような気がする。
いったい自分のどこが彼女の目に魅力的に映ったのか、考えても考えてもさっぱりわからない。
こんな風に思いを伝えられて、嬉しくないと言えば嘘になる。
教師と生徒という関係でなければ、もっと素直に喜びを表現していたかもしれない。
それに、村下が付き合っていると誤解している彼女、池坂澄香が、今もまだ木戸の心に住み着いているのも事実だ。
池坂との未来はないとわかってはいても、まだ彼女を追い求めている自分がいるのは否定できない。
木戸の胸の痛みは、刻々と深くなっていく。
ズキズキとえぐられるように痛み、立っているのも辛く感じるほど苦しくなる。
そして、なつかしい思い人の姿が脳裏にくっきりと浮かび上がり、彼に向かってにっこりと微笑みかけるのだ。
しかし、彼女の前に誰かが立ち塞がり、すっぽりと覆いつくしてしまった。
その人物のせいで木戸からは何も見えなくなる。
彼女の前に現れたのは親友の加賀屋宏彦だった。
彼が池坂を隠してしまったのだ。
心の奥深くに根ざしている初恋の人への思いはそう簡単には消えないだろう。
がしかし、澄香は自分に振り向くことはないとわかってもいた。
彼女の好きな人は自分ではないと。
池坂は、加賀屋が好きなのだ。加賀屋も多分、池坂のことが好きなのだろう。
二人の視線の先を見ればお互いが思い合っているだろうことは、見当がつく。
ならば、どうしてこんな仕打ちを受けなければならないのか。
どうして親友と同じ女性を好きになってしまったのだろう。
こればかりは不可抗力なので仕方ない。
どうあがいても過去を変えることは出来ないのだから。
ただし加賀屋は自分とは違い女性に多大な人気がある。
何も池坂でなくても他にいい相手が見つかる資質を兼ね備えているのだ。
高校時代に仲が良かった片桐先輩と付き合わないのなら、大学時代のサークルの後輩や、職場の同僚が、喜んで彼女として立候補するはずだ。
加賀屋には池坂以外の女性と結ばれて欲しい。そう願わずにはいられない。
いつかは池坂が振り向いてくれるのではないか、再び思いを伝えれば受け入れてくれるのではないかと、かすかな期待にすがってしまう。
こんな気持ちのまま、村下の好意に応えることは、人として決してやってはいけないことだ。
今木戸の目の前で、ありったけの力をふりしぼって思いを打ち明けてくれた生徒を愛することができれば、どれほど幸せになれることだろう。
村下は信頼のおける生徒だ。容姿も整っているし性格もいい。
連れて歩けば、道行く人が振り返るだろう。
部員の中にも、彼女に恋心を抱いている者が複数いるのを知っている。
だからと言って、村下を女性として愛することは難しい。
彼女の気持ちに応えられない自分がもどかしくもある。
木戸は往生際の悪い自分に愛想をつかしたかのように大きくため息をつき、雪が降り積もった渡り廊下の上をぎゅっと踏みしめて歩いて行った。