番外編4 8.花嫁の朝 その3
「の、信雅! どうしたの? まだ寝てたんじゃ……」
「この通り、起きてますけど? 」
「ごめんね。起さないように、静かに準備したつもりだったのに。夜通し運転してきたって聞いてたから。まだ眠いよね? 大丈夫? 」
「何ゆーてるん。五時間も寝せてもろたから、もう大丈夫やで。なあ、見てん(見てよ)、おめめもぱっちりしとーし。それより姉ちゃん、最後くらい、ええ弟ぶらせてえな。そっちのバッグも俺にかし (渡して)」
澄香の手からカバン類を奪い取った信雅は軽々とそれらを持ち、鼻歌交じりにとんとんと一階に下りていった。
「信雅、ありがとう。助かった……」
これ以上何かを話せば涙が出そうになる。
鼻の奥をツンとさせながら、信雅の後をついて下りて行く。
すると、リビングから家族がみんな玄関に出てきた。
そこはまるで、定員オーバーのエレベーターの中のように、家族がひしめき合っている。
「そろそろ式場に行く時間ね」
すでにスーツに着替えた母が、いつもの笑顔でそう言った。
留袖は式場で着付けしてもらう段取りになっている。
「うん」
再び溢れそうになる涙をこらえて、それだけ答える。
「澄香ちゃん、あとで行くからね。澄香ちゃんの花嫁姿、楽しみにしてるからね」
うるうるした瞳をこちらに向けながら祖母が言う。
「気をつけてね。何かあったら、すぐに連絡してきなさい。宏彦さんが澄香を大事にしない時は、いつでもここに帰ってくればいいんだからね。おばあちゃんが宏彦さんにちゃんと言ってあげるから」
もう一人の祖母の言葉に危うくずっこけそうになる。
宏彦が突然そんな風に冷たく変貌することなど、今はまだ考えられないが、将来の夫婦の危機にまで心を配ってくれている祖母には感謝してもしきれない。
「みんな、ありがとう。お父さん、お母さん……」
とうとうこの時が来てしまった。挨拶をするなら今しかない。
長い間お世話になり、ありがとうございました、と言おうとするのだが。
「お父さん……お母……さん。長い……うっうっ……」
だめだった。嗚咽を繰り返すばかりで、何も言葉にならない。
「澄香。いいのよ、何も言わなくても。あなたの気持ちはよくわかるから。ほらほら、泣いたらだめでしょ? 宏彦君が心配するわよ」
澄香の肩に手をやり、優しく覗き込む母からハンカチを受け取ると、流れる涙をそっとぬぐう。
薄っすらと施したアイメイクは、きっと最悪の状態になっているだろう。
でもそんなことはもうどうでもよかった。
「ありがとう……。ありがとう……」
何日もかかって考えた感謝の言葉も、頭の中から全部消えてしまった。
今の澄香には、ありがとうという言葉しか残されていなかった。
父と信雅以外全員が涙を流す中、澄香はバッグのポケットからカードを取り出し、父から順にそれを手渡していく。
手の中にあるカードから目を離さず、微動だにしない父。
早速封筒からカードを出して、目を真っ赤にする母。
祖母たちは、私たちにまでこんなことをしてくれてと、カードをさすり続ける。
「それでは、行って来ます。今日一日、いろいろとお世話になりますが、よろしくお願いします」
澄香はやっとのことそれだけ言って、家族に向かって頭を下げる。
ちょうどそのタイミングで、宏彦の運転する車が家の前に到着したのがわかった。
今夜は式場でもあるホテルに宿泊するため、翌日そのまま旅立てるよう、車で式場に向かうことになっている。
宏彦も昨夜は実家に戻り、家族で独身最後の夜を過ごしていると聞いた。
「あ、先輩や。姉ちゃん、荷物は俺にまかしといて」
まだ未開封のカードをズボンのポケットにねじこんだ信雅が、またもやひょいとカバンを持って澄香と一緒に外に出る。
「先輩! おはようございます。あ、まちごーた(間違った)。今日から、お兄さんっすね! いやあ、照れるなあ。でもお兄さんって、ええ響きやわ。それも、あこがれの大先輩が俺のほんまの兄貴になるんですよね。なんか、夢みたいや。こんなふつつかな弟ですけど、よろしくお願いしますっ! 」
底抜けに明るい信雅のパフォーマンスにいっきに場の空気がなごみ、さっきまでの湿っぽさが一掃されたのはよかったのだが、いきなりハイテンションな信雅に対面した宏彦は苦笑いを隠せない様子だった。
「信雅! いい加減にしろ! 宏彦君に失礼だろ。ったく、本当に恥ずかしい限りだ。宏彦君、澄香のこと、よろしく頼みます」
父が調子に乗る信雅をたしなめた後、宏彦に頭を下げた。
「お父さん、おはようございます。澄香さんのことは僕が一生守りますので、どうかご安心下さい。そして本日はいろいろとお世話になりますが、こちらこそ、どうそよろしくお願いいたします」
スーツ姿の宏彦が父に向かってきっぱりとそう言った。
そして信雅の後ろに立っていた澄香に優しく微笑みかける。
「じゃあ、行って来るね」
澄香は宏彦と共に車に乗り込み、シートベルトを装着した。
後を振り返ると、みんなが並んで見送ってくれている。
驚いたことに向かいの早菜ちゃんの家族までもが出てきて、手を振ってくれている。
そして、信雅は……。
ポケットから取り出したカードを読みながら、しきりに手で目をこすっているのが見える。
その横には、心配そうに信雅を見上げる早菜ちゃんがいた。
車が角に差し掛かった時、「姉ちゃーん、幸せになってな」 と大きな声で叫ぶ信雅の声が、窓越しに澄香の耳にはっきりと届いた。