番外編4 4.お願いやから、はよ帰って
「で、お姉さん。池坂君、いつ帰ってくるんですか? もしかしてバイトかな? でも前の居酒屋はもう辞めたって聞いたし……」
ユコは人差し指をあごのあたりに添えて、小首を傾げる。
悔しいがかわいい。目の前の元カノは、あたしにはない物をいっぱい持っている……。
早菜は敗北感にまみれながらも、律儀に彼女の問いに答えた。
「はい、バイトです。今はケーキ屋で働いています」
「ケーキ屋さん? ええーーっ! 信じられないです。池坂君がケーキ屋さんだなんて、ありえない。でもなんか不安です。ケーキ屋さんって、かわいい人多くないですか? うちの大学でも、ケーキ屋さんでバイトしてる人、めっちゃ多いです。まさか、今度の彼女はそこで見つけたとか……」
なんでそうなる。
確かに地元神戸のスイーツショップでも、かわいくてきれいな女性が働いている店は多い。
が、しかし。信雅が働いている店は、そのようなおしゃれなムードの店とは一線を画す。
年配の夫婦が、昔からの味を守りつつ長年営んでいる、そんな街角の小さなケーキ屋さんだからだ。
早菜は胸を張って、それは違いますと首を横に振った。
「そうなんだ。じゃあ、どこでその彼女と知り合ったのかな……って、まあそんなこと、どうでもいいです。ねえねえ、お姉さん。池坂君、いつ帰って来ますか? 」
「あの、多分、そろそろ帰ってくるかと」
「じゃあ、それまで待たせてもらっていいですか? その後輩の写真も見せたいし。そうそう、後輩の名前はナナって言うんです。奈良の奈に菜っ葉の菜で、奈菜。変換するの、ちょっとメンドクサイ名前だけど、とってもかわいい子なんです」
あ……。
あたしの名前と同じ『菜』の文字が含まれてる、などと、ぼんやり漢字を思い浮かべる。
けれど、こんな話に付き合っている場合ではないと思いなおす。
よく考えてみれば、かなりの非常事態だ。
いくらのんびり屋の早菜でも、次第に危機感がつのり始めていた。
「そ、そうですか。でも、ノブ君には、その、彼女がいるわけだし、その話は……」
「何言ってるんですか。お姉さんだって、彼のカノジョのこと、似合わないって。たった今、そうおっしゃったじゃないですか! 池坂君はかわいい子が好みなんです。それも、とびっきりかわいい子が。奈菜はそのとびっきりかわいいをはるかに飛び越した、ちょーかわいい子なんです。池坂君にぴったり。雑誌の読モだってやったことあるんですよ」
「……読モ、ですか。あの、ひとつきいてもいいですか? 」
「何でしょう。どうぞ何でもきいて下さい」
「あの、ユコさんは少し前までは、ノブ君のカノジョだったわけですよね? 」
「そうですけど? 」
それが何か? という顔をして、またもやちょこんと首を傾げる。
やっぱりかわいい人だ。
「だったら、たとえ別れた後でも、その、好きだった人が自分じゃない誰かと付き合うのって、いやじゃないですか? 」
「ええ? どうしてですか? 別にイヤじゃないですよ。それよか、彼がかわいくない人と惰性で付き合ってる方がずっとイヤです。私の元カレとってもモテるの、こんなかわいい人と付き合ってるのって皆に自慢できるほうが、よくないですか? 」
そんなものだろうか。
よくわからない思考回路だが、こんな人もいるということを知り勉強になった、とでも思っておくことにしよう。
「私も池坂君と付き合っている時は、皆からうらやましがられて、自慢のカレシだった。でもね、彼ったら、あの調子で、誰にでも優しいでしょ? 優しくされた子は、みんな自分に気があると思って、池坂君を独占しようとするの。デートする先々にそんな子が現れるし、イジワルもされるし。なんか、めんどくさくなっちゃって。それに、今は別のカレシも出来たし、池坂君も私と同じように、もっともっと幸せになって欲しいなって、そう思って。なら後輩を紹介しちゃおうって。うふふ……」
ユコが頬を薔薇色に染めて微笑む。
そうなんや。なるほどね。
この子なりに信雅との付き合いには苦労したってことみたいだ。
でも、いくら自分が幸せだからって、元カレの私生活にまでずかずかと入り込むのはルール違反ではないだろうか。
ここはなんとか信雅が帰ってくる前に、彼女にご退散願いたいものだと思う。
彼と会えば、余計に話がややこしくなるのが目に見えているからだ。
「あっ、ユコさん。あたし忘れてたけど、ノブ君、今夜は遅くなるんだった。店内の模様替えをするって言ってたような……」
それは昨日のことだ。
模様替えは、ほぼ出来上がったけど、残りは今日やって完成すると言っていた。
けれど、今夜はこれから二人ででかける予定があるため、できるだけ早めに帰ってくると言っていたのも事実だ。
全くの嘘ではないとしても、もしかしたら遅くなるかもしれない、というわずかな状況に希望を託し、ユコにそれとなく帰ってもらうようほのめかす。
「え? 遅くなるかも、なんですか? じゃあ……」
そう言って、ユコはスマホを手にした。
メールを打っているのだろうか。
よし。きっと彼にでも迎えに来てもらうのだろう。
やっと元カノとの気まずい対面から逃れられる……と思ったのも束の間。
「これでオッケー。今の彼に、今夜はもう会えないかもって連絡しておきました。だから、池坂君が帰ってくるまでここで待ってます。うふっ」
うふっ……って。なんでそうなる!
ちょっと待ってーな。
あんた、帰らへんのかいな! お願いやから、はよ帰ってよ。
これは大変なことになってしまった。
もうすぐ信雅が帰って来る。いやもしかしたらもう少し遅くなるかもだけど。
けれど、間違いなくここに帰って来るのだ。
そうなったら、どうすればいい?
新しい彼女の紹介も心配だけど、それよりも何よりも。
早菜が信雅の姉ではないことが、バレてしまうではないか。
「あの、彼と約束してたんですよね? なら、突然断ったら、彼に悪いじゃないですか。ノブ君にはあたしから伝えておきますので、どうぞ気にせずに、彼と会って下さい。ね、そうして下さい」
早菜は必死になってユコの心変わりを促進させるよう、懇願のまなざしを向ける。
今の彼氏を大切にするんだよ、大切にするんだよ、と呪文のように心の中で唱えながら。
「いいんです、いいんです。今度の彼はとっても優しくて、私の言うことなら何でも聞いてくれるんです。明日会えばいいので、お姉さんこそ気になさらないで下さい。ホント、お姉さんって、心くばりのできる優しい方ですね。池坂君の言ってたとおりの方です。ますますファンになっちゃいました! 」
いやいや、心配りなんて、全くしてませんから。
もう何を言っても無駄だ。
完全に早菜を本物の姉だと思い込んでいるユコには太刀打ちできない。
それならば、信雅に先に事情を説明しておけばいいのだと気付く。
「そ、それは、どうも……。あの、ちょっと失礼」
早菜はトイレに行くふりを装って、立ち上がった。
信雅にメールをするためだ。
早菜を澄香だと勘違いした元カノが、部屋に居座っているから、うまく話を合わせてとあらかじめ伝えておけば、修羅場にならずに済む……。
キッチンのすぐ横にある小さな個室に向かうちょうどその時、玄関ドアがガチャガチャと音を立てた。
「おーい! 帰ってきたでーー! 」
信雅の能天気な声が、早菜の耳に届く。
ま、間に合わなかった……。