14.何かが動き出す時 その3
「だから、そのメールの彼女と今から会う」
「今から? 会う? なんだかよくわからないわね。つまり、その、宏彦には彼女がいて、その彼女はあなたがずっとメールしてた人で。それでもって、今からその彼女と会うってことなのよね……」
「あ───。ぐだぐだとめんどくせーな。バレンタインデーの翌日はデートに決まってるだろ? 」
「デート? 」
聞き返したその時だった。
あまりにも唐突な宣言にびっくりしすぎた宏彦の父親が、あろうことかテーブルの上に味噌汁をこぼしてしまったのだ。
「ああ、しまった。お母さん、フキン、フキン、早く早く! 」
母親はあわてて布巾を手にして、父親が指し示すテーブルの上をさっと拭いた。
「ありがとう。宏彦が急にそんなことを言うから、手元が狂ってしもたやろ。ホンマにかなわんなあ」
「本当に驚いちゃうわよね。宏彦ったら、何の前触れもなく、急にそんなこと言うんだもの。それで、そのお相手はどなたなの? やっぱり、会社の方? それとも、札幌支店の方とか。いや、もしかしたら、取引先の方かしら。で、その方、こちらにいらしてるの? それとも宏彦がその方のところに出向くの? 」
拭き取った味噌汁で汚れた布巾をすすぎながら、対面キッチン越しに宏彦にあれこれ訊ねる。
父親はぶつぶつ言いながらも食事を続けながら話を聞いていた。
「……ったく、根掘り葉掘り聞くんだな。残念ながらどれも違う。今から彼女を迎えに行く」
「別にいいけど。迎えに行くってことは、そう遠くないのよね。そんな人、いたかしら? 誰? ま、まさか」
母親は目を見開いて、父親の顔を見た。
「え? その、まさかなのか? ってことは……」
父親も同じ人物を思い浮かべたようだ。
「御影のひとみちゃん! そうよね? 」
「片桐さんの娘なんか? 」
二人が同時に、意気揚々と名まえを告げた。
「そうそう。大学時代、東京でもお世話になったのよね? ね、宏彦。そうでしょ? 」
どういうことだろう。
幸せの絶頂にいるはずの宏彦の顔色がみるみる変わり、目つきが険しくなっていった。
何か変なことを言ってしまったのだろうか。
「宏彦、どうしたの? 何もそんなに怖い顔をしなくても……。もしかして、ひとみちゃんが年上なのを気にしてるの? それなら心配ないわ。だって、お母さんもお父さんより三歳年上なんだもの。そりゃあ、すんなり周りに認められたわけじゃなかったけど。そこはお父さんが頑張ってくれたから、今があるのよ」
「そうや。別に歳は関係ない。お互いがよければ、ええんとちがうか? 」
いつもより俄然饒舌になった父親が、これまた自信満々な笑みを浮かべて母親に同調する。
「ただね。ひとみちゃんは活発で美人で、とてもいい子だけど。宏彦とそうなるなんて、ちょっと意外。ひとみちゃんはあなたのこと、いつも気にかけてくれてたけど。宏彦ったら、まるで関心がないようなそぶりだったから」
「それは、あれやな、ほら、好きな子にはわざと冷たくすることがあるやろ? 照れ隠しやな」
自分にも経験があるのだろうか。父親は自分の発した言葉にさも満足げに頷く。
「そうね。お父さんの言うとおり、照れ隠しだったのね。宏彦ったら、ホント、水臭いんだから。それならそうと、もっと早く言ってくれればよかったのに。ねえ、お父さん」
「そうやな。つい先日、ひとみちゃんのお父さんに会ったばかりやのに、わかっとったら、もうちょっとちゃんと挨拶したのにな」
「ほんと、ほんと」
「あの……。二人で盛り上がっているところ、悪いんだけど……」
宏彦の抑揚のない低い声が、夫婦の会話をストップさせた。
「あら、何? 」
せっかくの話の流れを遮断する息子にあきれたように疑問詞を投げかける。
「なんで、俺の相手がひとみになるんだよ」
「えっ? 」
いったい宏彦は何を言い出すのだろう。
「違うんか? 」
父親がきょとんとした顔で宏彦を見た。
「俺が今から迎えにいく人は、お袋も知ってる三丁目の池坂澄香だ。勝手に別人を仕立て上げないでくれよ」
「三丁目の池坂さんって、あの池坂さん? えっ、うそ……。あら、いやだ。どうしましょ。昨日、池坂さんにお会いしたばかりなのに。ほんとに、ほんと? 」
「うそ言ってどうするんだよ。何か文句でも? 」
「いや、そんな。文句だなんて。あまりにもタイムリーな話で、びっくりしちゃって。でもね、そのまさかのまさかなのよね? なんか信じられないわ。実は冗談なんじゃ……」
「冗談? 信じるも信じないも、そっちの勝手だろ? 正真正銘そういうことだから。おやじ、車借りるぞ」
「ああ、別にええけど。やっぱりホンマのことみたいやな。よそ様の大事な娘さんや。くれぐれも運転は慎重にな」
「ああ、わかってる。気をつけるから。じゃあ、そういうことで。今から風呂入って、準備してでかける」
それからの宏彦の行動は早かった。
リビングから消えて十分後には、家の玄関脇にある車庫の車に乗り込んでいた。
いつもならそんなことはしないのに、夫婦で車庫前の道路に立ち、車を発進させる息子を見送る。
声をかけるでもなく、手を振るでもなく。
息子の運転する車の後部を、二人してただ呆然と見つめていた。
車が見えなくなったあとも、しばらくその場にたたずんでいた。
車だと、目的地にすぐに着く。
もう宏彦は池坂家のインターホンを鳴らしている頃かもしれないというのに……。
「そろそろ入りましょうか」
「そうやな」
そこに立っている理由がなくなった今、夫婦はゆっくりと部屋の中にもどった。
「あなた……」
再びテーブルに向かい合い、夫に話しかける。
「うん……」
「あの子、行きましたね」
「ああ……」
「お相手は、池坂さんちの娘さんだと、言ってましたね」
「ああ……」
「ひとみちゃんじゃ、なかった」
「うん……」
夫はテーブルの上で組んでいる指を凝視しながら頷く。
「これでよかったのかもしれませんね」
「そやな……」
「ひとみちゃんはきれいでいい子だけど」
「うん……」
「どこか、宏彦とは波長が合わないような気がしてた……」
「そうかもな……」
「宏彦は照れ隠しでもなんでもなく……」
「……」
「本当に、何とも思ってなかったみたいですね」
「たしかに……」
さっき、あれほど得意になって言ったことが気まずいのか、夫は苦笑しながら答える。
「いつまでも子どもだって思ってたけど。あの子はあの子なりに、自分の人生を見つけたのかしら」
「そうやったらええな」
「そうですね」
「あいつが決めたことや。もう何も言うことはない。夕べ君が話してた池坂さんやろ? その奥さんの子どもやったら、きっとええ子やと思う。僕もこうやって、君というええ奥さんに出会えた。宏彦も幸せになる。絶対にそうなる。僕らの息子や。あいつのこと、信じてやろ」
「そう……ですね……」
夫の言葉に目頭が熱くなる。
海外赴任に同行することで、多感な時期の子どもを馴染んだ生活から引き離し、寂しい思いをさせたこともあった。
けれどもそれを乗り越え、今、彼は自分の手で幸せを掴もうとしている。
そんな息子の恋を、これからはそっと支えていこう。
何もできないけど、見守ることならできる。
母親はふうっと息をはき、朝食の後片付けをしようと立ち上がった……その時だった。
エプロンのポケットに入れていた携帯が、電話の着信音を奏でる。
誰だろう。取り出して相手の名前を確かめた。
それはとてもタイムリーな相手だった。そして大急ぎで通話ボタンを押す。
「もしもし、おはようございます。昨日はどうも。……いえいえ、こちらこそ。あのう……今朝は息子が……」