8.紫陽花のように 前編
「あれに乗りたかった? ケーブルで上がってもよかったかな……」
左側に大きくハンドルを切りながら宏彦が訊ねる。
「あっ……。ううん。そんなことないよ」
澄香は後方に遠ざかっていくケーブル乗り場にいつの間にか視線が釘付けになっていたことに気付き、慌てて首を横に振った。
決してケーブルに乗りたかったわけではない。
子どもの頃、家族で六甲山に遊びに行ったことをぼんやりと思い出していただけなのだ。
山の斜面角度に合うように階段状になった車内が珍しくて、信雅と一緒にはしゃいでケーブルに乗り込んだのはいったい何年前の出来事だったのだろう。
遠い昔の記憶がおぼろげに蘇る。
「今度、あれに乗ってみてもいいかもな……。そうだ。エアコン切って、車の窓、開けようか? 」
「うん。いいけど……。でも、どうして急に? 今朝まで雨だったし、開けると蒸し暑くなるかも。大丈夫かな? 」
不快な風が車内に入り込むのを恐れた澄香は、宏彦のあまりに唐突な提案を素直に受け入れられなかった。
七月上旬の神戸の街は、まだ梅雨明け宣言をしていない。
「多分外は、涼しくなってるはずだけど。どうかな? 」
秀彦の操作でパワーウィンドウが作動し、窓ガラスがするすると下方に吸い込まれていく。
結婚生活を前に購入した新車は、五人乗りのワゴン車。
中は予想外にゆったりとしていて、荷物もいっぱい積める。
それよりも何よりも。澄香がこの車に一目ぼれしてしまったのが、購入を決めた一番の理由だった。
将来、澄香が使うことが多くなるだろうから、おまえが気に入った車にしよう……と言って、宏彦が二つ返事でこの車に決めた。
どうして彼自身でなく、澄香が気に入ったものを選んだろうと疑問に思ったのだが、宏彦の答えを聞くや否や、ディーラーを前に真っ赤になって俯いてしまったのは記憶に新しい。
近い将来、子どもを授かったら、保育園の送り迎えや病院通い、はたまた両家の実家訪問に必要になるから……と何食わぬ顔でさらりと言ってのけた宏彦。
結婚すれば子供ができる、というのは澄香にも理解できる。これは、何も不思議なことではない。
ともすれば結婚前の今であっても、願えば叶うかもしれない自然の摂理だ。
でも、自分が母親になることなど、まだまだ先のことだと思っている澄香にとって、宏彦の現実味を帯びた意見は、彼を直視できないくらい気恥ずかしい内容だったのだ。
思いのほか心地よい風が、澄香の頬を軽快に掠めていく。
雲が切れ、ところどころ青い空が顔を覗かせていた。
久しぶりに宏彦と行動を共にする休日。
天気予報もタイミングよく二人を裏切り、連日の雨がピタリと止んだのはまさしく奇跡としか言いようがない。
「今日は、大阪湾がはっきり見えるな。和歌山も近くに感じる」
「そうだね。風も気持いいし、空気が澄んでるね」
さっきまでの不安はどこへやら。爽やかな初夏の風に、日頃の仕事疲れもいつの間にか消えていく。
「本当に気持いいな。空気がうまい」
「うん、すっごく、おいしいね」
宏彦に倣って、大きく息を吸ってみる。
ひんやりとして瑞々しい緑の香りが、澄香の全身を幸福感で満たしていくようだった。
「昨日は梅田の大阪支社から生駒山を越えて、奈良まで行って来た。そして再び大阪に戻って報告を済ませ、夜に京都支社にとんぼ返り……。来週は、金沢まで出向く。八月は東京本社に出張。九月の結婚式までに、澄香とのんびり出かけられるのは、今日が最後かもしれないな」
「うん。でも仕方ないよ。九月にまとまった休みをもらうためだもの、我慢しなくちゃね。ひこちゃんもあたしも、与えられた仕事をしっかりこなすのが当面の課題だよね」
「そうだなって、なあ、澄香。もうそのひこちゃんっての辞めない? 」
「ええ? どうして? 」
「なんか身体中がムズムズするというか、ピンと来ないというか……」
「そうなの? なんでだろう」
「小さい頃、ひろくん、と呼ばれたことはあっても、ひこちゃんはないよ」
「そっか。せっかく二人だけの秘密の呼び方であたしは好きだったのにな。じゃあ、ひろくんに換えよっか? 」
「だからそうじゃなくて。普通に呼んでくれたらいいから。ひろひこでいいよ」
「わかった。ならこれからは、普通にするね。あーあ、なんだかつまんないな」
「まあ、そう言うなって。じゃあ俺もすみちゃんとか、みかちゃんとか、すかちゃんて呼んだほうがいいのか? 」
「すかちゃんって……それは、ないよ。今まで通り、澄香って呼んでくれるのが一番しっくりくるし……嬉しい」
「だろ? 」
「そうだね。わかった。じゃあ、これからはひこちゃんは辞めるように努力する」
せっかくいい呼び方だと思っていたのに。
他の誰も呼ばない、澄香だけの呼び方で今まで以上に彼と近くなれたと思っていたのは、独りよがりだったようだ。
でも名前の呼び方よりも何よりも。
こうやって二人で出かけられるこの時が何よりも大切でかけがえのない物なのは間違いない。
式の打ち合わせや、新生活に必要な物の準備に手間取り、なかなかデートらしい時間が取れない中、やっと持てた二人だけの時間。
今日一日は誰にも邪魔されず、楽しい時を過ごしたい。
それは宏彦も、澄香と同じ気持だったのだろう。
「澄香」
「ん? 何? 」
澄香は目の前に広がる壮大な景色から一旦目を離し、運転する宏彦の方に顔を向けた。
「この先、カーブが続く。だから、ハンドルから手が放せない」
「そ、そうだね。カーブを曲がり損ねたら、谷底に落ちちゃうし。しっかりハンドルを握ってくれなきゃ、確かに危ないよね」
どうしてそんなあたりまえのことを言うのだろう。
澄香は宏彦の真意を理解できないまま、曖昧に相槌を打つ。
「だから……」
「だから? 」
「…………」
惚れ惚れするような見事なハンドル捌きでいくつものカーブをやり過ごし、常に前の車と一定の間隔を保ちながらも、なぜか宏彦が無言になる。
何か気に障ることでも言ってしまったのだろうか……。
澄香は急に、自分のこれまでの言動に不安を感じ始めていた。
「ねえ、宏彦。あたし、何か変なこと言った? どうして黙っちゃうの? 気に入らないことがあるなら、そう言って。あたしが悪いのなら、謝る。だから、ね。黙ってないで、何か言ってよ。ねえ、ちゃんと話して……って、あっ……」
急カーブに差し掛かったとたん、身体が外側に引っ張られるように傾く。
澄香は慌てて口をつぐみ、体勢を立て直した。
ハンドルを切り損ねたら大事故に繋がる。
いつものように横からあれこれ話しかけるのは、この表六甲ドライブウェイでは慎まなければならないと、今ごろになって自分の失態に気付いたのだ。
澄香は恐る恐る、宏彦の横顔を盗み見た。
一瞬、澄香と目が合った宏彦の口元が、ふっと緩む。
「大丈夫か? 澄香のカーブのリアクション、随分派手だな。俺の運転そんなに荒っぽい? 」
「えっ? そんなことないんだけど。それよりごめんね。いろいろうるさく話しかけちゃって……」
「なんで謝るんだ? 何も悪くないだろ? なあ澄香。俺が今、澄香に何を望んでいると思う? 」
「それは、多分……。運転の邪魔をするな、とか、いい加減、静かにしてくれ、とか。宏彦は今そんな風に思ってるんじゃないかなって、そんな気がする。だからごめんって、謝ったんだけど……」
「はあ? 何を言ってるんだか……。俺の運転がそんなに心配? メイン道が事故渋滞してて、ここよりキツイ山道を抜けてきたこともある。それにここは人の飛び出しがほとんどない。よっぽど平地の路地の方が、危険がいっぱいだと思うけど」
「それはそうだけど。でも、あたしはやっぱりこんな道運転するの苦手だし、スピードも出せない。だから宏彦も、運転が大変じゃないかなって、そう思って……」
「慣れれば、誰だって大丈夫さ。右に曲がれば、次は左。そうやって徐々に山頂に向かっていくだけだから」
「じゃあ……。宏彦の望みって、何なの? 」
「俺の望みか? それは……」
澄香は再び訪れたカーブに身をゆだね、宏彦の答えにじっと耳を傾けた。
「それはな。澄香。澄香だよ」
「あ、あ、あたし? 」
澄香は人差し指で自分自身を指しながら、目を丸くした。