7.想いは時を越えて その後の物語 その3
「あなたらしいわね。でもね、くれぐれも無理しちゃだめよ。仕事もして家のこともして……っていうのは、慣れないうちはとても大変だと思うの。いつでも力になるから、遠慮なく甘えてちょうだいね。あなたのご両親も同じ気持だと思うわ」
「ありがとうございます。その時は、よろしくお願いします」
「もちろんよ。いつでも大歓迎だから……。あら、いけない。紅茶が! ついつい話しに夢中になっちゃって」
渋くなってしまったかも……と言いながら、母親があわててカップに紅茶を注ぎ分ける。
「あの、あたし、宏彦さんを呼んできますね」
「ええ、そうしてちょうだい」
澄香は、昔の宏彦を思いまた泣いてしまったことを気にしつつも、気分を奮い立たせ、彼を呼ぶためにリビングのドアを開けた。
すると目の前に……。
「遅いな。もう用意は出来てるんだろ? 」
宏彦だった。シャツの袖を肘まで捲り上げ滴る汗を腕で拭いながら、澄香の前に立っていたのだ。
「ご、ごめんなさい。今、呼びに行こうと思って……」
「ちょうどいいタイミングだったみたいだな。上も大体片付いたぞ。にしても……。女同士でよからぬ密談でもしてたんじゃないのか? 」
宏彦がすねたような口調でそんなことを言う。
まるで仲間はずれにされた子どものように寂しそうな目をして。
「そんなんじゃないって。紅茶の準備が出来るまで、お母さんと少しおしゃべりしてて」
「おしゃべり? 何の話だよ」
「あら、決まってるじゃない。わがまま宏彦をとっちめる方法を澄香ちゃんに伝授してたの。夫の操縦法は、なんと言っても初めが肝心なのよねーー。さあ、二人ともそんなところで立ち話なんかしてないで、早くこっちに座りなさい」
てきぱきと準備を整える母親が、辛らつなジョークを交えながら、テーブル着くように促す。
「ったく、二人して俺をこれ以上けなすのは勘弁してくれ。っていうか、お袋の言うことなんか真に受けるな。澄香、おまえは俺のことだけを信じてくれればいいんだから」
「で、でも……」
二人のストレートすぎる会話に、もはや澄香の立ち入る隙はなかった。
「澄香ちゃん。こんな横暴な態度を許しちゃだめよ。そうそう、澄香ちゃんにまだ言ってないことがあったわ」
「おい、まだ何かあるのか? もう充分だろ? 」
「宏彦、あなたは黙ってて。あのね、澄香ちゃん。この子が就職してしばらくの間、ここから京都まで出勤してたでしょ? 」
「ええ」
ふてくされたような態度の宏彦を視線の端に捉えながら、澄香は控え目に頷く。
「この子ったら、その頃、家の中でずっと携帯を肌身離さず持ってて、こまめに誰かに返信してるのよね。もうそれはそれは幸せそうに。何度か訊いたのよ。素敵な人がいるみたいねって。でもこの子ったら何て言ったと思う? 会社や取引先の人と仕事の話しをしてるだけだって。そんなこと誰が信じるものですか。会社の人とのメールなんて、表情や携帯の扱いですぐに区別がつくのよね。緩みっぱなしの目元口元でずっと画面を眺めて、大事そうに携帯を抱えて。すーっと二階に消えちゃうの。今思えば、そのお相手こそが、澄香ちゃんだったのよね。澄香ちゃんにも見せてあげたかったわ。もうメロメロになってる宏彦の姿を」
「イイカゲンニシロ……」
宏彦の抑揚のない声が、澄香をホラーな気分にさせる。
「大変! クリーニング店に取りに行くの忘れてた。お父さんのスラックスとジャケット。私のワンピースも今度の週末に着る予定なのよね。こんなことしてられない。澄香ちゃん、ごめんなさいね。私これからちょっと出てくるから。そうね、一時間は帰らない……じゃなくて、帰れないわ。ふふふ。あなたたちも久しぶりなんだもの。積もる話もあるでしょ? じゃあ、行って来ます」
目にも留まらぬ速さでエプロンをはずした母親が、瞬く間に澄香の前から姿を消した。
隣同士に座った澄香と宏彦の前には紅茶とケーキが並んでいた。
でもそこにあるのはどれもが二人分で。
これは母親の作戦に違いない。
宏彦と二人にしてくれるための、母親の精一杯の心遣いだったのだ。
まだ怒っているのだろうか。澄香は隣に座る宏彦をそっと覗き見る。
その瞬間、彼としっかり目が合ってしまい、ぷっと同時に笑い出してしまった。
「澄香、ごめんな。あんな母親で……」
宏彦の目元が緩む。
「ううん。あたし、宏彦のお母さんのこと、大好きだし」
「そうか。大好きか。それって、俺よりもってこと? 」
「何言ってるのよ。それはやっぱり、宏彦の方が……」
「俺の方が? 」
「うん。あなたの……方が……」
「さあ、続けて言って。途中でやめたら、俺には伝わらない」
「そんなの、言えないし。あたしの気持なら、言わなくてもわかってるでしょ? いじわる。宏彦のいじ……」
宏彦の腕が澄香の肩を抱き、座ったまま引き寄せられる。
次第に顔が近付いて澄香の口びるが再び彼に包み込まれ……。
宏彦の動きに添うように、紅茶がカップの中で小さな漣を作った。
そして、ほんの少しだけ、ぴちゃっと揺れた。