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かくれんぼ  作者: 大平麻由理
番外編 3 六月の嵐
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27.ピリオド その2

 あれは二月の凍える夜だった。

 オリオン座のきらめきの中、思い焦がれていた人と初めて口づけを交わしたのだ。

 彼に抱きしめられ、彼に思いを告げられ。自分にはこの人しかいないと思ったあの日。

 澄香はその人と生きていける未来を授かった喜びで、この上ない幸福を感じたのではなかったのか。

 彼を思い続けてよかった、彼を愛していてよかったと、心から満たされた気持を味わったのは、幻だったのだろうか……。

 片桐のことも、まだ彼から何も詳しくは聞いていない。

 ただ見たことをそのまま捉えて、一人で疑惑の芽を膨らませていただけだとしたら。


 澄香は木戸から顔を(そむ)け、彼の体を突き放した。


「池坂……」


 彼の乾いた唇から、ため息交じりの声がもれ聞こえる。


「木戸君。あたしたち、こんなことするためにここに来たんじゃないよね。それに、あたし、やっぱり宏彦が好きなの。彼を疑ってしまった自分が悲しくて仕方ないほど。やっぱりあの人が好きなの」

「君をそんなに傷付けているのに? それでもあいつがいいのか? 」

「うん。あたしには、宏彦しかいない。木戸君が。それを気付かせてくれたの」

「俺……が? 」

「そう。あたし、今から宏彦のところに戻る。そして片桐さんにも、きちんと話をしようと思う。すべてはそれから。だから。あたしのことはもういいから。早くさくらさんを探しに行って、あ……」


 木戸のポケットのあたりから携帯の振動音が聞こえる。

 木戸が急いで携帯を取り出し、送信して来た相手を確かめ言った。


「加賀屋だ……」


 そして、澄香を見たあと、もしもしと話し始めた。


「ああ、俺。ああ、うん。そうだ。えっ? そうなのか? 今どこ? ああ。わかった。池坂か? 彼女なら……さっき会ったから、多分まだ近くにいると……思う。わかった。彼女に連絡取って、今からそっちに向かう。加賀屋、ありがとう。助かった……」


 木戸の声のトーンが幾分上がっているように思える。さくらが見つかったのだろうか。


「木戸君? もしかして……」

「ああ。見つかったらしい。今から三宮に行くよ。チサさんって言ったっけ? 池坂の同僚の。その人のマンションのエントランス付近でうろうろしていたさくらを、加賀屋が見つけてくれたんだ。チサさんもちょうど帰って来たところで、家で預かってもらってるらしい」

「それ、ホントなの? ホントなのね。見つかって……よかった」


 せっかく止まった涙が、またじわっと溢れてくる。


「本当に、お騒がせなやつだよな。池坂、いろいろとすまなかった。それにしても、加賀屋も相変らず頑固だな。君に連絡しづらかったから先に俺にかけてきたんだろう。あいつ、しきりに池坂のことばかり気にしていたようだったけど」


 澄香は電源を切っていたわけではない。

 本来なら、自分のところにかかってくるはずの電話が木戸にかかったということらしい。

 けれど、澄香はそんなことはどうでもよかった。

 それよりも何よりも、喧嘩別れしたあと彼が片桐のところに戻らずに、さくらを探してくれていたことが何よりも嬉しかったのだ。

 澄香はますます自分の大人気ない態度が悔やまれてならない。

 少しでも宏彦を疑ったことが恥ずかしくなる。

 そして、ついさっきの木戸とのあってはならない出来事も……。


「池坂、俺……。加賀屋には、今君と一緒にいないと言ってしまったんだけど……」 

「そ、そうなんだ」


 咄嗟の機転というものだろう。

 澄香は思うのだ。ついていい嘘と、だめな嘘。嘘には二種類あるのだと。


「ここであったことは、すべて忘れて欲しい、と言ったら。君は聞き入れてくれるかな? 」

「うん。あたしも、そうするつもりだったから。木戸君とは……。何もなかった。だって嘘でもなんでもない。本当に何も、なかった……。でも、この部屋に二人だけでいたことは、言い訳できない。いくら、あたしが体調を崩していたとしても、木戸君にすがるべきではなかった……」

「でも、びしょ濡れの君を見捨てることは俺にはできない。人としてあるべきことをしたまでだと思っている。けれど。君をこんなにも翻弄させてしまって、もう少しで取り返しのつかないことになるところだった。本当に君には申し訳ないことをしてしまった。俺はどうかしていたんだ。君の涙を見て、それは俺の涙だと思った。俺も心の中で泣いていたんだ。そして、あんなことに……。俺はもう迷わない。よくわかったよ。君の目は、あいつしか見ていない。俺の目は……。きっとこれからも、さくらしか見ない」


 そう言い切った彼に向かって、澄香はこくっと頷く。

 木戸が今夜まで誰を思っていたのか。それは彼のみにしかわからない。

 もしかすると、さくらとの恋に揺れながら、心の奥では昔の恋を忘れられずにいたのかもしれない。

 でも澄香はそれ以上は聞かなかった。

 木戸が今言ったことがすべてなのだと、信じるしかないのだから。



 木戸とは別のタクシーに乗り込み、チサのマンションに向かう。

 濡れたアスファルトに、街の灯りが反射してきらめく。

 雨の上がった神戸の街は、恋人たちの苦しみも悲しみもすべて洗い流したかのようにまっさらの光で輝き、澄香の傷ついた心にかすかな希望が射し込んだ瞬間でもあった。


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