26.ピリオド その1
「そうだったんだ。木戸君、いろいろと、ありがとう」
「いや、それくらい当然だよ。でも、仮に予約していた部屋を使ったとしても、俺たちは何も悪いことはしていないんだ。誰にも咎められないさ。だって、考えてもみろよ。君がさくらを探してくれたから、そのせいでずぶ濡れになったんだろ? 俺たちのために一生懸命、動きまわってくれた人を、粗末に扱えるわけがない。そんな君を放っておいたら、それこそ、加賀屋に恨まれる」
澄香は安堵のため息を漏らす。
てっきりここが木戸とさくらの部屋だと思っていたので、とまどっていたのだ。
澄香は木戸の思いがけない配慮に、身体中の力がすーっと抜けていくのを感じていた。
けれど、ホッとすると同時に、木戸にそこまで感謝されるようなことを、果たして自分はしたのだろうかと疑問が膨らむ。
もちろん、さくらのことが心配だったのは本当だ。
まだ連絡のない今も彼女のことが気になっている。
でも彼女を探し続けたのにはもう一つ別の理由があったはずだ。
そう、宏彦と片桐のいるところに戻りたくないという理由。
二人のところに舞い戻るくらいなら、例え雨の中であっても、街を彷徨っている方がいいと思った。
それなのに木戸ときたら、さくらのことが心配で仕方ないのにもかかわらず、自分のことは二の次で、澄香の立場を思いやってくれるのだ。
今もサニタリールームのドアを開けた瞬間、彼が素早く携帯をポケットにしまったのを見た。
きっと内心はさくらのことが気になっていて、彼女からの連絡を心待ちにしているに違いない。
ならば、もう大丈夫だからと言って、少しでも早く木戸を自分から解放してあげるべきではないだろうか。
澄香は話を聞いてくれると言う木戸に向かって、笑顔を向けた。
「木戸君。あたしは……。あたしはもう、大丈夫だから。ここで少し休んで、そして、時間を見て家に帰る……。だから、木戸君は、さくらさんを探して……あげ……て」
「池坂……」
澄香はにっこりと微笑みながら、心からそう言ったつもりだった。なのに……。
「池坂、どうしたんだよ。どこが大丈夫なんだ」
木戸が立ち上がり、澄香の前に立つ。そして、ためらいがちに指を澄香の頬に添えるのだ。
「木戸君? だから、あたしはもう大丈夫だって……言ってるっ」
頬から指を離した木戸が、澄香を覆うように抱きしめた。
いったいどうなっているのか、澄香にはその理由が飲み込めない。
「なんで、君が泣かなければいけないんだ。あいつのせいなのか? 加賀屋が君を不幸にするのか? 」
澄香ははっとして、木戸の体に押さえつけられていた手を動かし、自分の頬に、そして目にそっ触れてみる。
やっぱり涙がこぼれていたのだ。
胸がぎゅっと締め付けられ、何かがこみあげてきそうな苦しい思いには気付いていたけれど、堪えることが出来たと思っていたのは、間違いだったようだ。
「あいつを疑いたくはない。でも、君の涙は、何よりも真実を物語っているんだと思う。俺はあいつを許さない。君を悲しませる者は何だって許さない」
「木戸君……」
「一度、君に疑われるようなことがあったのなら。誠心誠意、君のことを守るのが、あいつの務めだろ? なのに、また片桐先輩と連絡を取り合ってるだって? おまけに腕を絡めて、じゃれ合って……。いったい何を考えているんだ」
木戸の叫びが、重なった体を通して澄香の全身に響いてくる。
泣いている自分を見て、このような行動を起した木戸を誰が責められるだろう。
宏彦以外の男性にこうやって抱き締められることに抵抗があったけど、今の澄香に彼を拒否する理由はどこにもないと思った。
「池坂」
抱き締められていた腕の力がふっと緩み、木戸の顔が、澄香の見上げたすぐ先にあった。
「俺は、どうして今こうやって君を抱いているのか、自分でもわからない。多分、君のことが放って置けなくて、衝動的になっているんだと思う。でも、これだけは確かだ。君の涙は見たくない。そして、そんな君を、俺は、俺は。ずっと……」
澄香は今目の前にいるその人の目が、厳しさの中にも優しさを含んでいることを知っている。
そして、かつてその目にずっと見守られていたことも。
宏彦のことは今でも好きだ。誰よりも愛しているのは変わらない。
でも、彼は自分だけを見ているのではない。
彼の心の中には、片桐という女性の存在が今も尚生き続けていることはもう間違いないと、さっきの一連の行動で証明されたのだ。
この先も、ずっと彼女のことで心を痛めるのなら。
今ここで立ち止まって、将来を見つめ直すのも選択肢の一つなのかもしれないと思い始める。
澄香の心に一瞬の魔が差したその時、彼女の前に彼の顔が近付いてくるのがわかった。
ああ、これは……。
心臓がありえないほどの早鐘を打ち、息をするのも辛くなる。
澄香は思わず目を逸らし、うつむいた。
何かを察した木戸がすぐに顔を離し、池坂、とかすれた声でささやくように澄香を呼んだ。
再び顔を上げた澄香をじっと見つめたあと、また距離を縮めてくる。
今度は本当にお互いに触れあってしまう。
澄香は本能的にすべてを察していた。
このまま流れに任せてしまえば、あるいは、また別の道に行き当たるのではないだろうか。
今のひと時だけこの同級生に身を預け、その後のことはまた考え直せばいいのでは……などと澄香の心に、さまざまな思惑が乱れ飛ぶ。