15.高校二年生 その9
「加賀屋、くん……」
それはあまりにも突然の出来事だった。
ついさっきまでグラウンドにいたはずの宏彦が、ここにいるのだ。
澄香は当然のごとく、平静ではいられない。
心臓は信じられないくらいドキドキするし声はひっくり返りそうになるし。
顔に至っては……。
自分では見えないけれど、きっとりんごより、いや、トマトよりも赤いはずだ。
この場をどう乗り切ればいいのか、皆目検討がつかない。
野球のユニホーム姿の宏彦を、ただ呆然と眺めることしか出来ないのだ。
春に比べれば少し伸びた髪が、汗で額に貼り付いている。
伸びたと言っても、スポーツ刈り程度の長さしかないのは、悲しいかな野球部の定めでもある。
サッカー部員のような、おしゃれな今時のヘアースタイルは、野球部ではもちろん禁止事項になっているのだろう。
でも澄香は知っている。
実は宏彦の髪は、緩くウエーブがかかっていることを。
小学校の卒業アルバムに写っていた彼は、集合写真の右上に一人分だけ切り取られて載せられていた。
けれど、長いまつげと少しクセのある髪が印象的なあどけない表情の少年像は、今でも十分、その面影をたどることができる。
「池坂も調査票書いてるの? 迷ってるのか? 」
近い。宏彦の上半身が目の前に迫ってくる。
澄香の方にぐいっと顔を寄せながら、真顔の宏彦が話しかける。
今の澄香には、忙しげにまばたきを繰り返し、こくこくと頷くのが精一杯の返答だった。
「俺も今、鬼クロから呼び出し喰らってさあ」
「ふーん、そうなんだ」
相槌を打つが、どうもぎこちない。
機械的な返事になってしまう。
「どうしたんだ? なんかいつもと違うけど」
「え? そんなことないよ。いつもこんなだよ……」
見抜かれたのだろうか。
落ち着け、落ち着くんだと必死になって自分に言い聞かせる。
「ん……。ま、いいか。それで、部活の練習始まってるのに、志望校をもう少し考えろって言われたんだ。何もこんな時間に言わなくてもいいのにな。でも鬼クロには、誰も逆らえないし」
「そ、そうだよね。鬼クロの機嫌を損ねるなんて、怖すぎる」
鬼クロ……。それは担任の鬼教師、黒川のニックネームである。
鬼のように怖くて厳しいからというだけでなく、黒川の着用している上着のタグに、某有名衣料チェーン店のロゴがあったのを見逃さなかった最前列に座る生徒の発案で、このネーミングが定着したのだ。
オニクロ。一時違いで大違いだが、今や全校生にまでその名が知れ渡る勢いで、黒川本人も気付きながら黙認しているらしい。
その鬼クロに呼び出されて、調査票の書き直しを命じられた宏彦が、今澄香の前にいる。
最近は疎遠になっていた相手に急に親しげに話しかけられ、澄香は戸惑いを隠せないでいた。
ペンと用紙を持った宏彦は、離れた位置にある彼の席に着くのかと思いきや、澄香の前の席に後ろ向きにまたがるように座り、同じ机に用紙を置いて、向かい合う形になった。
澄香は、これでもかというほど大きく目を見開き、ぽかんと口を開けたまま、真ん前の宏彦を凝視する。
「どうした? 俺、どっか変? 」
い、いえいえ。変だなんて……。
彼に限って、そんなことがあるわけない。
ただちょっとびっくりしただけだ。
澄香はあたふたしながらも彼から視線を逸らし、違うよ、全然変なんかじゃない、と首を横に振った。
これではまるで、恋人同士みたいだ。
校内のカップルがこうやって向かい合っているのを時々見ることがある。
そんな彼らと自分の今の状況を重ね合わせて、勝手に舞い上がっているのだ。
やだ。またもや心臓が派手に高鳴り始めてしまった。
そして、今さらながらではあるが、動揺してるのを悟られないようにと、自分の調査票をだけをじっと睨みつける。
こんなことでは、どこをどうみても、宏彦を意識しているのがまるわかりだ。
澄香は稚拙な態度を示してしまった自分に、たっぷりと後悔の念を抱いた。
「なあ、池坂。大学どうすんの? 地元神戸や阪神間の大学? 自宅通学なら京都も圏内だよな。地方や東京ってのもありかな? 」
宏彦との距離わずか十数センチ。
それは、今まで生きてきた中で、宏彦との最短距離を記録した瞬間だった。
いや、彼の胸にぶつかって転がったあの時はもっと近かったけど、今のような気持ちはまだ育っていなかった。
胸の鼓動はマックスを越えて……。
もう、ピコピコ動くインジケーターが枠外にはみ出してしまうんじゃないかと思えるくらいの爆音で、激しく脈打つ。
「た、多分、神戸市内。それか、西宮あたりで」
澄香はペンを動かすフリをしながら、下を向いたまま答える。
「ふーん。地元志向か。で、学部は? 」
「あっ……。えっと、商学部か経営学部。経済学部でもいいよ。そんな感じ」
「なんだ、それなら俺と一緒だな! そっか、池坂も……」
いっしょ? ということは、彼も同じ学部を希望しているのだろうか。
澄香の緊張度が極限状態に達し、身を固くするあまり握り締めていたペンをうっかりと机の下に落としてしまった。
「俺は、多分、東京に出ることになると思う。実は英語を武器に、関西の私大の推薦狙ってたけど。鬼クロの奴、国立にしろ、なんて言いやがるんだ。まあその方が、親にも金の面で苦労かけずにすむしな。なら、池坂も東京……」
だとすれば、彼は商学部や経営学部を受ける可能性があるというわけだ。
同じ大学に行けるかもしれない。いや、行けるだろう。
なんてラッキーなことだろう。チャンス到来だ。
澄香は未来への明るい展望を脳内で思い巡らせながら、おもいっきり手を伸ばして、落としたペンを拾った。
その時彼女の頭の中は、宏彦と一緒の学部ということだけで喜びに溢れんばかりになっていた。
だからなのか、彼が言った、俺は多分東京に出る……という所を、すっかり聞き逃してしまったのだ。
この失態が、後々彼女を苦しめることになろうとは、当時の澄香は知る由もなかった。