21.サイカイ その2
すると、意図したわけでもないのに、すでに宏彦の左手が膝の上にある彼女の右手に重なっていた。
白くて細い澄香の指に、宏彦の指が絡む。
澄香が一瞬ビクッと身体を震わせ、不自然に瞬きを繰り返すが、しばらくこのままでいさせて欲しいと指先に願いをこめ、ぎゅっと彼女の手を握り締めた。
宏彦の思いが伝わったのだろうか。彼女もそっと握り返してくる。
テーブルクロスの下で交わされる密やかな戯れに、ひと時酔いしれる。
けれど、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。
「なあなあ、木戸。おまえなら俺の気持わかるだろ? おまえも本当のところどうなんだよ。かがちゃんに池坂さんを取られた気分は……」
楠木の予想だにしない発言に、澄香の横顔が強張る。
ここでそれを言うかと宏彦が楠木を睨みつけるや否や、木戸の彼女が立ち上がり、化粧室に行くと言って瞬く間にその場からいなくなったのだ。
楠木の言葉で傷ついたのは澄香だけではなかった。
木戸の彼女であるさくらも、あるいは澄香以上にショックを受けたかもしれない。
自分も同じ立場なのに、さくらの気持を思いやった澄香が、宏彦の目を見て意を決したように駆け出した。さくらを追って行ったのだ。
「おい、クッスン。おまえ、なんであんなこと言ったんだよ! 」
宏彦は怒りに任せ、楠木に疑問を投げつける。
「あ、いや、その。俺はただ、ノリで言っただけだよ。いつも池坂さんのことで木戸を冷やかしていたじゃないか。それで、つい」
「つい? 木戸の彼女の気持にもなってみろ。ったくおまえ、それくらいのこともわからないのか? 」
「ごめん。悪かったよ……」
楠木がしょんぼりとうな垂れる。
ちょっと言い過ぎただろうか。しかし宏彦はまだ怒りが治まらない。
「加賀屋、もういいよ。楠木だって悪気があったわけじゃないし。それに、池坂がついてくれてるから、大丈夫だ」
澄香の後を追って行った木戸がすぐに戻ってきて、宏彦をなだめる。
「おまえ、そんなのん気なことを言っててもいいのか? おまえの彼女、かなり傷ついてるぞ」
「ああ。でもさっきから不機嫌で、みんなにもさんざん迷惑をかけてるんだ。あいつのああいったところ、今に始まったことじゃないし、おかげで俺も慣れたよ。だからクッスンも気にするな。大丈夫、すぐに戻ってくるさ。それに女性用の化粧室には、いくら俺でも入っていけないだろ? 」
そう言って木戸が首をすくめてみせる。
宏彦は、野球以外のことは不器用でという木戸の母親の嘆きがわかるような気がした。
さくらがそのような態度を見せるのも、そもそも木戸のはっきりしない性格が起因しているのではないかと思えてならない。
「あの、すみません……」
店員が大きなボストンバッグを抱えて、テーブルのそばにやって来た。これは確か……。
「これ、こちらにいらっしゃる大西様のご関係の方からお預かりしたのですが」
木戸がさくらの奇行を詫びながら、みんなのグラスにワインを注ごうとしているさなか、きょとんとした顔で大西が店員からバッグを受け取った。
木戸がそのバッグを目にしたとたん、顔色が変わる。
ワインボトルを置き、ごめんとだけ言って店を出て行った。
「これ、もしかして、木戸の彼女が持ってたやつなんか? 」
バッグの扱いに困っている大西が眉をひそめ、宏彦に訊ねる。
「そうみたい……だな。ってことは、彼女、いなくなったのか? 」
「そうかもしれへんな」
大西がぎろっと楠木を見る。
こうなったのはおまえのせいだとでも言わんばかりに睨みを利かせて。
「お、俺、見てくるよ」
自分の不始末にようやく気付いた楠木が、おろおろしながらその場に立ち上がった。
「クッスン、おまえが行ってどうするねん。彼女、おまえの顔なんか絶対に見たないやろ。まあ、ちょっと待ってみよ。何かあったら、木戸が連絡してくるやろ。それまで俺らはここにおった方がええんとちがうか? 」
「そ、そうかな……」
大西にたしなめられ、弱々しい返事をしながら楠木が再び席に着く。
その時、大西がジーンズのポケットから振動する携帯を取り出し耳にあてた。
「木戸か? 」
宏彦が身を乗り出し発信者が誰なのか訊ねる。
澄香もまだ戻ってこない今、楠木以上に外の様子が気になって仕方なかいのだ。
「あっ、いや……。もしもし、ああ、俺。浩人や……」
木戸じゃないと首を振ったのか、そうだと頷いたのか。
どちらとも取れる大西のリアクションに答えを得られない宏彦は、気付けば店の外に向かって駆け出していた。
背後で自分を呼び止める楠木と新田の声が瞬時に遠ざかる。
店を出てすぐのところで、夕暮れの歩道に白い服が浮かび上がった。
宏彦はその光景に目を見張る。
「あら、宏彦じゃない! どういった風の吹き回しかしら。もしかして……。今頃になって、あたしを振ったこと。後悔してるの? 」
外に出た宏彦を待ち受けていたのは。
澄香でもなく。木戸でもなく……。
真っ赤な口びるで妖艶に微笑む、片桐ひとみだった。