19.誘惑 その2
「さくらが言ってたんだよ。前に君の職場の人に世話になっただろ? その人のこと」
「あ……」
「君とその世話になった人のことを、さくらはとても誇らしげにいつも俺に話してくれていたんだ。とても優しくしてもらったって、喜んでいて。だからきっと、その人のところに行ったんじゃないかって、そう思ったんだ。加賀屋に聞けば、このコンビニの近くだと教えてくれて。俺も元は神戸にいた人間だ。だいたいの検討はつくから、とにかくここまで走って来たんだ」
「そ、そうだったんだ」
「池坂が走って行った方角とも重なるし、きっとこの辺りに違いないと思って来てみれば、見覚えのある人がこっちに向かって来るのが見えて……。やっぱり君だったよ。で、さくらは? いたのか? 」
澄香は木戸の目を見て、いないと首を横に振った。
澄香が悪いわけでもないのに、木戸にいい返事を届けられなかったことが残念で申し訳なく思う。
「あたしも絶対にここだと思ったんだけど、いなかった。でも、この後さくらさんが来るかもしれないから。あたし、もう少しだけここで待ってようかなって思ってる。コンビニの前だと、屋根もあるし……」
澄香は上を見て、ここだと濡れないとアピールしてみせる。
「池坂。もういいって。それに君、びしょ濡れじゃないか。いくら六月だと言っても、今日の雨は、春の雨と変わらないくらい冷たい。このままだと風邪をひくぞ」
「んもう、木戸君ったら。子どもじゃあるまいし。雨に濡れたくらい、平気だってば。あのね、木戸君。さくらさん、きっとここに来るような気がするの。だから、もうちょっとだけ、ね? 」
「君の気持は嬉しいよ。でもここに来る確証はどこにもないし、それに、この雨だ。案外、ネットカフェか漫画喫茶にでも行って、時間をつぶしているのかもしれない。あいつ、無類の漫画好きでね」
「漫画好き? 」
「ああ。それも野球を題材にした少年漫画のファンなんだ。きっと独身最後の夜を、大好きなキャラクター達に囲まれて、思いのままに過ごしているんじゃないかと思う。俺にめいっぱい心配させて、後でひょっこりホテルの方にもどってくるってことも考えられる。そうだよ。そんな気がする。おっと、こんなことしてられない。あいつに知らせないと……」
木戸がポケットから携帯を取り出す。あいつ……。それは宏彦のことだろうか。
澄香は反射的に木戸の携帯を掴んでいた。
「お、おい。どうしたんだ? 」
「ちょっと待って」
「え? 」
木戸がきょとんとした顔で澄香を見た。
「宏彦を呼ぶの? 」
「ああ、そうだ。君を一人で家に帰すわけにいかないだろ? 俺が送って行くことができればそれが一番いいけど、そうもいかない。だから……」
「お願い。それだけはやめて。嫌なの。今夜はもう、宏彦に会いたくない」
それは本当だった。今再び彼に会ってしまえば、また口論を繰り返してしまいそうだったから。
今夜は会うべきではないと、本能的にそう思ったのだ。
「池坂……」
「こんなこと言って、木戸君を困らせてしまって、本当にごめんね。でも、あたし、今夜は……」
澄香は木戸の携帯から手を離し、俯いたまま唇をかんだ。
「わかったよ。君の意見を尊重する」
「ありがとう、木戸君」
「でも、加賀屋も相当頑固だからな。本当は君のこと、気になって仕方ないんだよ。さっきも君が行ってしまった後、何度も振り返っていた。そんなに心配なら追いかけろよと言っても、俺は行かないの一点張りで。それで俺だけがここに来たってわけだ。あいつ、俺が連絡したらすっ飛んで来ると思うけど。それでもダメなのか? 」
「う、うん。今夜はどうしても会いたくないの。だから……。ごめんね、木戸君。なんだかあたし、このままここにいたら、木戸君にも迷惑かけちゃうみたいだね。さくらさんも、結局見つけてあげることができなかったし。あたしのことは心配いらないから、木戸君はさくらさんのことだけ、考えてあげてね。あたしは、この後……大通りに出て、タクシーに……乗って……帰る……から」
「池坂? 」
「じゃ、じゃあね。あたし、行かなくちゃ。傘、ありが……とう。車に乗れば、雨に濡れないし、返して……おく……ね」
木戸に返そうと傘を差し出すが、その手が震えて地面に落としそうになる。
「おい、池坂。どうしたんだ? 大丈夫か? 顔色も悪いし。……寒いのか? 」
「そ、そんなこと、ないって……。ちょっと、濡れた服が……冷たく……て……。大丈夫……。大丈夫だって……き、木戸君? 」
木戸の腕が澄香の背中に回り、次の瞬間、ぐいっと抱き寄せられる。
「ごめん、池坂。嫌かもしれないけど、俺に身体を預けて」
「木戸君、あたし……」
一人で歩けるから大丈夫、と思っていても寒さと緊張のあまり声にならない。
「こんなに冷たくなって……。今からタクシーに乗って。君を家まで送るよ」
澄香は震えながらも、意識だけは妙にクリアになっていく。
木戸に身体を支えるように片手で抱き寄せられ、もう片方の手で差した傘に守られながら、ゆっくりと歩いていく。
暖かかった。木戸と重なった部分から、じんわりとぬくもりが伝わってくる。
思いがけない木戸の優しさに、澄香は次第に身体の力が抜けていくのを感じていた。