15.行かない、行きたくない その2
「あ、いや。俺、あいつに意見できる立場じゃないし。あいつが君のことを想っているのを知っていて、ずっと妨害してたのは俺だから。親友という名のもとに、俺はあいつに甘えていたんだ。あいつにだけは君を取られたくないと思っていた。そして、そんなあいつだからこそ俺を裏切ることはないとわかっていたから……」
「木戸君……」
「俺、自分が嫌だったんだ。こんな自分が嫌いでたまらなかった。神戸から離れたら、君を忘れられる。加賀屋も俺から自由になれる。そう思って九州に行った。仕事先も広島を選んだ。でもあいつ、やっぱり律儀ないいやつなんだよ。京都や大阪の国立大でもよかったはずなのに、あえて東京の大学を選んだんだ。俺の見え透いた嘘もそのまま受け入れてくれて、一向に君に歩み寄ろうとしなかった。見事なまでにフェアを貫いたんだ。俺がさくらとの結婚を決めたことを伝えて初めてあいつが動いた。そういうやつなんだ。加賀屋ってやつは……」
澄香は木戸の話しにじっと聞き入るあまり、次は三宮というアナウンスさえ聞き逃してしまう。
電車はすでに地上に別れを告げ、地下を走っていた。
「さくらが君のところに押しかけたあの日、俺、池坂に訊いたよな。幸せなのかって」
「う、うん」
「てっきりもう君たちは付き合っていると思っていたんだ。俺の澄香に手を出すなって年末に加賀屋から釘を刺されていたからな。でもさくらが池坂はまだ片思い中だと言うし。おかしいと思った俺は次の日あいつに電話したよ。札幌にいると言ってたっけ。そしたらやっぱりまだ君とは付き合ってないって言うし。でも今から神戸に帰って、池坂に会うんだと声を弾ませていた。おまけに自分の彼女くらいちゃんと管理しろって怒鳴られるし。俺、何がなんだかさっぱりわからなかったよ。先月、大西からの野球部緊急連絡網でいきなり君たちの結婚を知らされて、びっくりしたんだ」
「そ、そうだったんだ。でも、さくらさんの言うとおり、その時はまだ宏彦とは……。ただ、彼への思いはずっと冷めることはなかったし、片思いでも幸せだったから。木戸君に幸せだよって、そう言ったの……」
「そうか……。じゃあ、あいつがあの日、札幌から神戸に帰って来て君に会ったとして。突然あいつに会いたいって言われて驚いただろ?」
「う、うん。まさかもう帰って来るとは思わなかったから。出張日程はまだ残っていたの。だから急に帰ってきて、びっくり……」
「ちょっと待て。どうして池坂が加賀屋の出張日程とか知ってるんだ? まだ付き合ってなかったんだろ? 」
「そ、それはそうなんだけど」
澄香は返事に詰まり口ごもる。
もしかしたら、木戸はメールのことを知らないのかもしれない。
「あ……。なんだかんだ言いながら、結局、君も加賀屋も。うまくやってたってわけか……。そっか、俺に気を遣って、こっそり付き合ってたんだ」
「そ、そんなんじゃなくて、ただ……」
「池坂、降りるぞ。もう三宮だ」
ただ、メールをしてただけと言いかけたのだが……。すぐに口を閉ざした。
たとえメールだけの繋がりであっても、木戸が知れば不愉快になるかもしれない。
宏彦に出し抜かれたような気分を味わわせてしまうのではないかと心配になったのだ。
電車を降りた木戸の後を追いかけるように改札に向かう。左手はデパートの地下入り口。
右手はJRの駅に繋がっている。
「池坂。やっぱり君をみんなのいる居酒屋に送り届ける。それから俺はまたさくらを探しに行くよ」
右手に曲がりながら木戸が澄香に声をかける。
「待って、木戸君。あたしも探しに行く。あのね、ひとつだけ心当たりがあるの」
「加賀屋も心配してるだろ? 早く行ってやれよ。さくらのことはもういいから」
「行かない。あたし、行きたくないから」
「池坂。どうしたんだよ。さっきから変だぞ?」
「あ……。だ、だから。あたしは、さくらさんを」
「わかった。じゃあ、心当たりの場所を教えてくれ。俺が行くから」
やれやれと言うように木戸が首を振り、澄香を見下ろして言った。
「友だちの家なの。説明するより、あたしが行った方が早いと思う。だから……」
澄香はもうエスカレーターを上り始めていた。
上りきって左側の横断歩道では傘をさした人たちが青信号に変わるのを今か今かと待っている。
その信号を渡れば宏彦たちが待つ居酒屋に着く近道になる。でも澄香は渡らなかった。
チサのマンションのある南側に行くため、方向を変えようとした。
すると木戸が澄香の傘を持つ手を掴み、引き止めるのだ。
「だから、待てよ。俺が行くから。デパートより南の方? それとも東? 」
「南。そして少し東寄りになる……」
木戸の強引さについに折れた澄香は、しぶしぶ答える。
「マンションの名前は?」
「えっと……」
澄香が顔を上げて口を開きかけたその時だった。
「おい。おまえら、何やってるんだよ」
木戸の背後から現れた人物の冷ややかな声が、澄香の耳に雨音と共に飛び込む。
「加賀屋……」
後を振り返った木戸が、ゆっくりと澄香を掴んでいた手を離した。