14.行かない、行きたくない その1
「雨、当分止みそうにないな」
「うん」
澄香は三宮に向かう私鉄の車内でドアに背を向けて立ち、神妙な面持ちで頷いた。
六甲ライナーの中ではひとこともしゃべらなかった木戸が、電車を乗り換えてからようやく口を開いた。
「まさか結婚式の前日に、池坂と二人で電車に乗ることになるなんて思ってもみなかったよ」
「そうだね」
澄香も木戸と同じことを考えていた。
まさか宏彦との恋路を妨害していた張本人と二人きりでいることになろうとは、誰が予想しただろう。
「それもあろうことか、花嫁に逃げられるという失態までやらかしてしまって……」
木戸はドアの横にある手すりにつかまり、やるせない目をして雨が激しく打ち付ける窓の向こうに視線を向けた。
「さくらさん、きっといろいろと不安なんじゃない? まだ結婚まで間があるあたしでも、どうしようってとまどうことだらけだもの」
「そうなのか? 」
「そうよ。さくらさんはあたしよりずっと若いし、それにまだ学生だし。周りの心無い一言一言がストレートに胸に刺さるんだと思う。楠木君も、悪気はなかったのだろうけど……。昔のことを知らないさくらさんには、ショックな言葉だったのね」
「ああ。確かにな。楠木もつい、いつもの調子でべらべらとしゃべってしまったんだろうな」
「うん……」
窓の外から澄香に視線を移した木戸が堰を切ったように話し始める。
「俺、結婚はまだもう少し先でもよかったんだ。でもどうしても早く一緒になりたいとあいつが言うから……。さくらが言うには、俺の気が変わらないうちに結婚してしまいたかったらしい。なあ、池坂。俺って、そんなに信用ないのかな」
木戸の自信なさげな表情は教師のそれではなかった。
まるで高校時代の彼がそのままタイムスリップしてきたと思えるくらい、純粋な目で訴えかける。
「もしかして木戸君、もてもてだったんじゃない? 若い男の先生って、女子高生のあこがれだもん。さくらさん、誰かに取られやしないかって心配でしょうがなかったんだ」
「何を言ってるんだよ。俺のどこがもてるって? バレンタインにもらったチョコの数だって、既婚の先生に負けるくらいなんだぞ。俺って、かなり見かけが怖いらしい」
澄香は木戸の言葉を受けて、彼をじっと見てみた。
高校時代と変わらず精悍な顔立ちには違いないが、決して怖いイメージではない。
それを言うなら、会社の上司の方がもっといかめしい顔をしている人が多い。
その既婚の先生が、並外れた容姿をしているということだろう。
「怖くなんかないよ。威厳があるくらいの方が先生らしくていいと思う」
「そうかな。嘘でもそう言ってもらえると嬉しいよ」
「嘘なんかじゃないって。それに女の子は誰だって、好きな人と早く結婚したいって思うんじゃないかな。さくらさんもきっと……」
澄香も宏彦にプロポーズされた時、天にも昇る気持ちだったことを思い出す。
一日だって離れていられなくて、恋しくて恋しくて。
早く一緒に暮らしたいと、そればかり思っていた。
「交際するきっかけは向こうからだったけど、プロポーズは俺からした。この子を幸せにしたいと心からそう思ったんだ。たとえ、二年、三年先でも。せめて短大を卒業してから結婚できればそれでもいいと思っていた。俺は自分の言ったことに責任を持つつもりだったんだ。なのに、あいつ、俺の言うことが信じられなかったみたいで。何を思ったのか、俺の携帯を見て君のことを誤解して、すぐにでも籍を入れようと迫られて。結婚を決めても尚、二月に君のところに乗り込んで行って、挙句、このざまだ。もう、正直お手上げだよ。どうしていいかわからない」
木戸ががっくりと肩を落とし、疲れたようにため息をつく。
「ねえ、木戸君」
木戸が顔だけこちらに向けた。
「結婚すると言っても、お互いのことなんて、まだほんの少ししかわかってないと思うの。いろいろ話もして、同じ時を過ごして、相手のことを理解したつもりになっていても。結局は、何も知らないのかもしれないって、そう思う」
木戸の眉がぴくっと動いた。
「あたしだってそう。宏彦のこと、すべてわかったつもりになっていたけど。そうじゃなかった。なにひとつ知らないんじゃないかって、すごく不安になる時があるもの」
「池坂……」
「あははは。あたし、何言ってるんだろ。こんなこと木戸君に言っても仕方ないのにね。もっと励ましてあげなきゃいけないのに、余計に心配させちゃったね」
言わなくてもいいことまでしゃべってしまったのだろうか。
さっきの宏彦の電話の声がまだ耳に残っている澄香は、ついつい愚痴っぽくなってしまう自分を悔やんだ。
「うまくいってないのか? 加賀屋と……」
木戸が怪訝そうな顔をして、澄香を見る。
「あっ……。そ、そんなことないよ。そりゃあ、時には言い合いもするけど。別に、仲が悪いわけじゃ……」
「ホントに? 」
「う、うん。宏彦のこと、信じているから」
「ならいいんだけど。池坂には幸せになってもらいたいよ。加賀屋に非があるのなら、俺からあいつに言ってやってもいいんだけど」
「いいの。ホントに何もないから。ごめんね。変なこと言って」
そんなことになったら、木戸に何を言ったんだと、それだけでまた秀彦と喧嘩になりそうだ。
澄香は木戸の申し出を丁重に断った。