13.アノトキモ、アメダッタ その2
『わからない。澄香がどうしてそこまで無理を言うのか、俺にはちっともわからない。さくらさんを探しに行ってくれたのは感謝してるよ。でもおまえまでもが、どうしてそんなわがままを言うのか、さっぱり理解できない。いったい何があったって言うんだ! 』
「何もそんなに怒鳴らなくたって……。ねえ、宏彦。これだけは言いたくなかったけど。あなたがそこまで言うのなら、あたし、もう黙ってられない。あたし、見たの。店を出て少し行ったところで後を振り返ったら。片桐さんが、宏彦にまとわりついているのが見えた。宏彦。あなた言ったじゃない。先輩とはこんりんざい関わらないって。なのに、舌の根も乾かないうちに、また連絡まで取り合って……」
『なんだって? 何を見てそんなこと言ってるんだ。確かに俺が店を出たら彼女がいて、そういうことをされたかもしれない……。あいつはすぐにそういう態度を取る。それは俺にだけじゃなくて、知っている相手なら誰でもだ。でも、変だな。あの時、澄香はもうどこにもいなかったはずだが』
「そんなの、ただの言い訳よ。よく見ればあたしがいるのも見えたはず。片桐さんに気を取られて、あたしのことなんて、もう、どうでもよかったんだ。片桐さんに会えて嬉しくて、あたしのことなんて眼中になくて……」
『澄香、いい加減にしろ。俺がいつ彼女に気を取られただって? 誰が嬉しいって言った! 』
「もういい。あたし、あたし……。こんなことしてられないし。さくらさんを探さなきゃ。それじゃあ……」
『おい、待て! なあ、澄香。なんか誤解してないか? 連絡取り合ってたって、誰と? 俺が誰と連絡を取ったって言うんだ。もし片桐先輩とそうしていたというなら、それは、ち……』
このまま電話を切るべきなのか、それとも、とりあえず宏彦の話を最後まで聞くべきなのか。
耳から離した携帯を眺めながら考えをめぐらせていると、澄香の頭上にある街灯が突然遮られ、手元が暗くなる。
何が起こったのだろうと慌てて顔を上げるとそこには。
「木戸君……」
「池坂。ここだったんだ。ごめんな、迷惑かけて。俺、ちょっと実家を覘いてくる。すぐにここに戻るから、少しだけ待っててもらってもいい? 一緒に三宮に戻ろう」
うんと頷き、水しぶきを上げながら走り去っていく木戸の後姿を見送っていた。
手のひらの携帯は、いつの間にか通話が切れていた。
木戸に出会った瞬間、切ってしまったのかもしれない。
あるいは、宏彦の言い訳を聞きたくなくて、携帯を耳から離した時、反射的に切ってしまった可能性もある。
澄香は雨に濡れないよう、もう一歩だけ後退して軒の内側に入り、会話が途中になってしまった宏彦の番号を表示させ、電話をかけようとした、のだが。
通話ボタンを押すことはなかった。
またあの言い訳の続きを聞かされるのなら、それはもう必要ないと思ったからだ。
明日、木戸の結婚式が終わったら、その後宏彦ともう一度話しをして、今後のことを考えればいい。
それでも誤解だと言い張るなら……。彼を信じようと思う。あとは宏彦次第だ。
澄香は手の中の携帯をじっと見つめていた。
宏彦からまたかかってくるかもしれないと、微かな期待を抱きながら。
五分経ち、十分経っても、依然澄香の携帯は沈黙を守り続けている。
聞こえるのは雨の音と、頭上を通り過ぎる六甲ライナーの振動だけだった。
「待たせて、ごめん」
傘を手にした木戸が澄香の隣に駆け込んで来た。
髪の毛にいっぱい雨水をしたたらせながら、申し訳なさそうに謝る。
「せっかく傘があるのに、木戸君ったら……。どうして男の人って、傘をささないのかな? 濡れてるよ。そうだ、これで拭いて」
澄香はハンカチを差し出しながら、いつのまにか木戸と普通にしゃべっている自分に不思議な気分になっていた。
あれほど苦手だった相手なのに、どうしたのだろう。
それぞれに人生を捧げた伴侶がいることが、安心感につながっているのだろうか。
と言っても、その伴侶と諍いを起こしている真っ只中の二人なのだが。
「いつものことだから、濡れても別に平気なんだけどな。ハンカチありがとう。でもいいよ、君に借りるわけにはいかない。加賀屋にコロサレル……」
そんな冗談を言う木戸だが、やはりハンカチを受け取ることはなかった。
もちろん、さくらが木戸の実家を訊ねた様子もなかったらしい。
まだ彼女とは連絡が取れないままだと言う。
「あいつ、どこにいるんだろうな……。はい、傘。君が使うだろうと思って、家のを拝借してきた」
「あ、ありがとう……。でも、これ、さくらさんに」
「ここにもあるから」
上着のポケットからひょこっと小さな折り畳み傘を出してみせる。
そんな気遣いを見せる木戸だけど、彼の顔には笑顔はなかった。
ぼんやりとどこか遠くを見ている彼の心の中は、きっとさくらへの思いで溢れかえっているのだろう。
「あともう二時間ほど待って、連絡が取れないようだったら。警察に捜索願を出すつもりだ。それぞれの両親にも本当のことを言ったよ」
「そうなんだ。なんとか見つけ出さなきゃね」
「ああ。でも君はこのあと、みんなのところに行ってくれたらいい。これ以上、迷惑はかけられないからな」
「でも、木戸君一人じゃ、探すの大変だよ。あたしももう少しだけ、探してみる」
「ホントにいいのか? そう言ってもらえると助かるよ」
「やだ、あたりまえじゃない。さくらさんは、こんなあたしでも頼りにしてくれてたんだもの」
「あいつのことで、君にまで心配をかけてしまって。本当にごめんな」
「ううん、そんなことないよ」
「なあ、池坂」
「何? 」
「俺、これでも教師なんだ。なのに、たった一人の元生徒すら守ってやれない……。情けないけど、それでも教師なんだ。何やってるんだろうな、俺……」
昔、澄香と付き合いたいと言ったその人は、深いため息をつきながら千円札を券売機に押し込み、二枚出てきた切符の一枚を、そっと彼女の手のひらに載せた。
木戸の手が濡れていたのだろうか。切符も少し濡れている。
そうだ、あの日も雨だった。
片思いだった宏彦に、傘を貸そうと勇気をふりしぼったあの日……。
宏彦には傘を貸せなかったけれど、木戸と一緒に歩いたあの雨の日のことを、澄香はしたたる雨だれの音と共に、静かに思い出していた。