12.アノトキモ、アメダッタ その1
『澄香。すみか? もしもし、もしもし』
澄香の耳に届いたのは、紛れもなく宏彦の声だった。
『澄香? 聞こえてる? 』
もちろん聞こえている。
けれど、どのようにしてさっきの不愉快な出来事を彼に切り出そうかと悩んでいるのだ。
片桐をあの場所に呼んだ理由も、そして宏彦の腕を取り親しげにしていたあの態度も。
どうしてあのようなことになるのか、納得のいくような説明が欲しかった。
しかしやみくもに問いただした挙句、耳を塞ぎたくなるような事実が告げられたらと思うと、やはり訊くことをためらってしまう。
『どうしたんだ? とにかく早くこっちに戻って来い。な、澄香? 』
「ひ、宏彦。あたし……」
ようやく澄香の口から出た言葉はそれだけだった。
結局、真実を知るのが怖くて何も訊けやしないのだ。
『澄香。おまえがむやみに動き回っても、木戸の彼女の居場所がわからない限り、探すのは無理だ。もし広島に帰っていたらどうする? その可能性だってないとは言えないだろ? 何かあったら、木戸が知らせてくるはずだから、澄香は早くこっちに戻って来い。どこにいるんだ? 教えてくれ! 』
宏彦の言うことにも一理ある。
でも。彼女がそんな簡単に結婚を諦めるとは思えない。
彼女がどれほど木戸を深く愛しているかは、二月のあの事件でもよくわかったし、それ以降にやり取りしたメールでも、彼女の嘘偽りのない木戸への想いは澄香に十分に伝わっていた。
絶対に神戸にいる。澄香はさくらが神戸のどこかにいるはずだと確信めいたものを感じ取っていた。
「あたしのいる場所は、南の、ほう……」
なぜか素直になれなくて、大雑把に今いる場所を伝える。
『南って、どこだよ? ハーバーか? それとも、ポートアイランド?』
「ろっ……」
六甲アイランドと言いかけて、澄香はそのまま言葉を飲み込んだ。
別にどこにいようが、片桐と楽しそうにじゃれ合っていた宏彦には関係のないことだ。
片桐をそこに残したまま、澄香を迎えに来るとでも言うのなら話は違う。
でも友だち思いの宏彦のことだ。仲間を残したままここにやって来るなんてことは、まずは考えられない。
澄香にほんの少しだけ、宏彦を困らせてみたい感情が生まれていた。
宏彦だって、自ら進んでやったことではないにしても、片桐に腕を絡められて悪い気はしなかったはずだ。
彼女とは学生時代に何もなかったと言っていたが、そんなの本当かどうかなんて、澄香にわかるはずもなく。
ならばこれしきのことくらいかわいいものじゃないかと、澄香はわずかばかりの仕返し気分を味わっていたのだ。
「ねえ、宏彦。雨も降ってきたし。今から迎えに来て。お願い」
ちょっぴり宏彦をためしてみる。
本気でそう思っているわけではないのだが、つい言ってみたくなったのだ。
彼が自分を思う気持ちを確かめてみたかった。
迎えになど来てもらわなくても、このまま六甲ライナーに乗れば、浜側を走る私鉄の駅まですぐだ。
そこから数駅で三宮に着く。
お願い、どうかこのささやかな願いを叶えて下さい。
澄香は祈るような気持ちで彼の返答を待った。
『えっ? いったいどこまで行ったんだ。道に迷ったのか? 』
宏彦の驚きが伝わってくる。ちょっとやりすぎただろうか。
「あ、あの。そんな遠くじゃない。ただ、宏彦に来て欲しいなって、思っただけ」
『何言ってるんだよ。どこだ? もしかして、六甲アイランド? まさか、木戸と一緒なのか』
宏彦の声が突如トーンダウンする。
「じゃあ、宏彦が迎えに行くって言ってくれたら、ここがどこだか教える」
うそでもいい。話を合わせてくれるだけでいいのだ。
すぐに迎えに行くから、そこで待ってろと言ってくれるだけでいい。
一人で大変だっただろう? 一緒に行ってやれなくてごめんなといたわりの言葉を掛けてくれるだけでいい。
無理言ってごめんね。わがままなあたしで、ホントにごめん。
宏彦にそう言ってもらえるだけで嬉しい。
すぐにそっちに戻るから宏彦はみんなと一緒に待ってて、と彼に届ける答えも用意していた。
たとえ再び片桐と顔を合わせることになっても、宏彦のその言葉を支えに、今夜はやり過ごせると思ったからだ。
それなのに宏彦ときたら……。
『澄香、俺と取引しようって言うのか? じゃあ、俺の質問に答えるのが先だ。それからおまえの言い分を聞こう。そこは六甲アイランドで木戸も一緒なのか? どうなんだ。答えろよ』
澄香の期待した内容とは程遠い返事が返って来る。
澄香は唖然として、雨の降りしきる暗闇に視線を彷徨わせた。
「そ、そんなの、ひどい。横暴すぎる。それじゃあ、あたしが六甲アイランドにいるって言ったとしても、宏彦は迎えに来てくれるの? そうだよね? 木戸君は……ここにはいないわ。店を出てからは別行動だもの」
『そうか。別なんだな。なら早く戻って来い。六甲アイランドなら別に迎えに行かなくてもいいだろ? 』
「宏彦。あたしまだ、六甲アイランドにいるって言ってないし。なんで迎えに来てくれないの? そっちには大西君たちもまだいるんでしょ? ならちょっとだけ抜け出して、あたしを迎えに行って来るって言ってくれてもいいじゃない……」
『おまえな……。いったいどうしたっていうんだよ。木戸の彼女に感化されたのか? みんなもいるんだ。俺だけ勝手な行動が出来ないことくらいわかるだろ? 澄香と仲間たちを天秤にかけようとは思わない。どっちも大切だ。でも今夜は、主役の二人がいないんだ。なのに俺まで席をはずしたら、他のやつらがどう思う? 今夜のことを企画してくれた大西の立場はどうなる? 』
「それはそうだけど。あたしだってそれくらいは、わかる。だから、あたしが言いたいのはそうじゃなくて……。ねえ、宏彦。あたしの思ってることくらい気付いてよ。ただね、本当に来れなくてもいいから、迎えに行くよって言って欲しかっただけなの……」
そう。ほんのちょっぴり、宏彦を困らせたかっただけ。
澄香、親友の手助けをしてくれてありがとう、片桐先輩は放っておけばいい。今すぐに迎えに行く。俺には澄香しかいないのだから……。
そう言ってくれるだけでよかったのに。
売り言葉に買い言葉。もう引っ込みかつかなくなってしまった。