10.思い出のアイランド その2
「あっ、いや。それは……」
宏彦が返答に詰まる。
澄香は蘇る過去に息苦しくなり、その場で俯いて唇をかみしめ、話題が変わるよう祈ることしか出来ない。
「そりゃあ、若いうちにはいろいろあるのが当然だと思っているわ。でも、たったそれくらいのことで神戸から逃げ出すなんて、信じられなくて。あの子、悩んでるそぶりなんてちっとも見せなかったから……。そんな馬鹿なことがありますかって、私も初めは取り合わなかったんだけど。どうも娘の直感が間違っていなかったみたいで。その忘れられない彼女さんの存在で、さくらさん……あ、翔紀のお嫁さんの名前ね。彼女との喧嘩が絶えないみたいなの」
さあさあ、あなたたちも紅茶を飲んでね、と木戸の母親が気遣ってくれる。
「ふふふ。今どきのお嬢さんって、しっかりなさってるのよね。さくらさんが私のところに直談判してくるのよ。お母さん、先生のこと何とかして下さいって。そんなこと私に言われてもねえ」
母親が父親の方をちらっと見た。けれど父親は知らぬふりを決め込む。
「翔紀は、さくらさんが勝手に騒いでいるだけだからほっとけって言うし。こっちはお嫁さんに泣きつかれるしで、結婚前からこんなことでは先が思いやられるわって、娘にも話すんだけど。その点、加賀屋君はこちらのお嬢さんと結婚されると伺って。とてもお似合いよ」
突如宏彦に矛先が向けられ、澄香の心臓がドクッと跳ねる。
「えっと、池坂さん? っておっしゃったわね。お歳は? お若く見えるけど、さくらさんより一つか二つ上くらいかしら」
「あっ、いえ。同級生です。中央高校の……」
母親が何も知らないようだと気付いた宏彦が慌てて答える。
「まあ、そうだったの? いやだ。翔紀はそんなこと何も言わないから。じやあご実家も神戸なのね。お住まいはどちらかしら? 」
「は、はい。あの……」
澄香に視線を移し訊ねてくる木戸の母親には、何も悪気はないとわかっている。
わかっているのだが。
でもすぐには答えられなかった。
木戸の姉が澄香のことをどこまで知っているのかは定かではないが、実家の場所を答えるとすべてが露呈してしまうような気がして、思うように言葉が出てこないのだ。
「あら、いやだわ。私、池坂さんに何を聞いてるのかしら。ごめんなさいね。翔紀の同級生だと伺ったら、ついつい親しみを感じちゃって」
「うちの近所です。彼女とは小学校からずっと一緒でした」
宏彦がすかさず答えた。きょとんとしている母親をまっすぐに見ながら。きっぱりとそう言った。
「そうだったの? 知らなかったわ……」
「あ、はい……」
「なんかいいわね、そういうの。お互い気心も知れてるだろうし、素敵なお話しだと思うわ。翔紀のお嫁さんも、池坂さんみたいに分別のついた優しいお嬢さんだったらよかったのだけど……」
今日はゆっくりしていってちょうだいね、とすがるような視線を向けてくる木戸の母親には申し訳ないのだが。
これ以上、彼女の話を聞いていられなくて、澄香は宏彦とそっと目配せをして、そのあとすぐに席を立ち、木戸家を後にした。
帰り道の宏彦の不機嫌さはそれはもう、天下一品だった。
言うまでも無く、運転も史上最悪の乱暴さを露わにしていた。
そのまま実家に送り届けてもらう予定だったのに、結局西宮のマンションまで強引に連れて行かれた。
その日、澄香が実家に帰ったのは深夜だった。
そんな時に限って、単身赴任を終えた父親が早々に帰宅していて、澄香の帰りを今か今かと待っているのだ。
澄香、なんでこんなに遅いんだ、と怒りモードで出迎える父親を尻目に、宏彦の荒々しい口付けの痕を家族に見つからないよう、胸元を隠しながら二階に駆け上がったあの日を思い出し、耳までカッと熱くなる。
そんなことを考えながら、目の前に突然現れた段差を危うく踏み外しそうになる。
リバーモールの北の端に来ても、さくらに出会うことはなかった。
木戸からも連絡は無い。まださくらは見つかっていないようだ。
さくらは、木戸の両親に受け入れられていないことを敏感に感じ取っているのかもしれない。
もし澄香が宏彦の両親に同じように思われていたならば、きっと耐えられなくて、さくらと同様、逃げ出したに違いない。
たった一人で胸を痛めているだろうさくらを思い、澄香は夜の未来都市を彼女の姿を探し求め、彷徨い歩いた。
ますます潮風がきつくなってきた。空を見上げると、暗闇に低く垂れ込めた灰色の雲がスピードをあげて、山の方に流れていく。
雨の匂いがさっきより強くなったような気がする。
潮風でべたべたになった髪を指で梳きながら、澄香の脳裏にふとあることが思い浮かび、その場に立ち止まった。
チサの家に行ったのではないかと……。