8.夢じゃない その2
「大丈夫だってば。そんなこと気にしてたら、あたし、どこにも行けないし。だって、考えてみて。宏彦の職場にも、女の人っていっぱいいるでしょ? その人たちがみんな、男の人にたぶらかされてる? 」
「それは、ない。ないけど」
「なら、同じだよ。あたしの職場も意外とみんな真面目だし。あたしが気がつかないだけかもしれないけど、誰と誰が不倫とか、そんな話、聞いたことないよ」
「もちろん、澄香が誰かに気持を傾けるとは思ってない。そうじゃなくて、そっちの職場は独身男も多いだろ? 」
「ま、まあね。でも結婚したら誰も寄ってこないよ。それくらいわきまえてるって。それにあたし、宏彦が心配するほどモテないし。そりゃあ、食事に誘ってくれる人はいたけど、それだけだよ」
「本当にそれだけか? 中には強引な男もいただろ? 」
宏彦が真剣な眼差しを向ける。
お互いに過去の恋の遍歴はあまり語り合ったことはなかった。
澄香も宏彦の過去はほとんど何も知らない。
片桐とは深い関係ではなかったということだけ、確認している程度だ。
だが、澄香は今まで本当に誰とも付き合ってこなかったのだから、宏彦の誘導尋問にもひっかかるはずがないと高をくくっていた。
「だから、本当に何もないって」
「本当か? 」
「ほ、本当だってば」
「じゃあ、澄香の職場の男の目は節穴だらけだとでも? 澄香の魅力に誰も気付かないのか? 」
「あたしの魅力? そ、そんなもの、あるわけないし。あたしが相手にされなかっただけで。ターゲットはきっと他に……」
「吉山ってやつもか? 俺にくれたメールにもさりげなく何度も登場していたよな。それに信雅は嘘は吐かない。そうだよな? 」
澄香の心臓がドクッと跳ねた。
ちょうど今、ハーバーランドで仁太に抱きしめられた夜のことを思い出していたのだ。
宏彦に彼女がいると確信したあの夜。
その彼女が自分を指しているなど、夢にも思わなかった澄香は、存在すらしない空想彼女に取り付かれ、身も心もボロボロになっていた。
「う、うん。でも信雅は、チサの話を聞きかじって勝手に早合点しただけだから。だってチサは、余計なことは信雅に話さないし……って、あ……」
「余計なことね。ほら、見てみろ。余計なことやってるんじゃないか! 」
「ち、違うって。そうじゃなくて。ただ」
「ただ? 」
宏彦の目が真実を求めて澄香に揺さぶりをかける。
彼にそんな風に見られたら、澄香はもうノックアウト寸前に追い込まれてしまうのだ。
隠し事なんて無理。
「正直に言うから。だから信じて。ただね、あの、その。ちょっと、抱きしめられたっていうか、その……。あたしが、甘えてしまったの。寂しかったのかもしれない。ご、ごめんなさい。それ以上は、何も。本当に何も……」
澄香を覗き込むようにしていた宏彦がふっと息をもらし、顔を上げた。
「わかった。もういいって。俺が悪かったよ。問い詰めたりして、ごめん。付き合う前の澄香にまで嫉妬するなんて、ホントに自分が情けないよ」
「宏彦……」
「こうやって澄香と一緒にいても、これは夢なんじゃないかって不安になる。澄香を抱いても、その日のうちにまた離れ離れだ。俺を包み込んだ女神はすぐに消えていなくなる。ああ、早く一緒に暮らしたいよ。毎日、こうやって、澄香を確かめたい」
「あたしだって。宏彦がそんなにあたしを思ってくれていることが信じられなくて。いつも家に帰って、自分のほっぺをつねってるんだから。痛みを感じて初めて、ああやっぱりホントなんだって。今までの思い出のメールがぎっしり詰まった携帯を胸に抱えて、眠るの……って、はっ……」
突如重なった唇から、澄香の吐息が漏れる。
温かくて柔らかくて、思いのこもった宏彦の口付けに、澄香はしばし酔いしれた。
「澄香。日曜日から今日まで、俺がどれだけ待ち遠しく思っていたか、おまえにわかるか? これじゃあ足りない。もっともっと、澄香を感じたい」
再び、宏彦に抱きしめられ、澄香もそれに応えるように、彼の胸にすがりついた。
そして、宏彦の待ちきれない気持が伝わるような熱い口付けを額から頬に受けている時、聞き慣れたメロディーが、無情にも二人を遠ざけようとするのだ。
それでも宏彦はやめなかった。
テーブルの上で鳴り響く携帯の着信音が虚しく室内に響き渡る。
澄香の瞼にようやくたどり着いた宏彦の唇が名残惜しそうにそこから離れた。
宏彦が苦々しい笑顔を見せた後、携帯を掴む。
「もしもし。なんだ? また、その話か……。だから俺は仕事でその時間は……」
相手は大西のようだ。
来週の土曜日の話をしている。
澄香は宏彦の手を握ったまま、横でやり取りを聞いていた。
宏彦が途中幾度か声を荒げたが。再び静まり、最後には根負けしたのか、わかったと言って携帯を閉じた。
宏彦が大きくため息をひとつ吐き、困惑の表情を浮かべる。
「ごめん。土曜日、やっぱり新神戸に……」
あれほど木戸に会わせるのを嫌がっていた宏彦が、澄香に行って欲しいと懇願するのだ。
大西に何を言われたのかは知らないが、律儀な宏彦のことだ。断りきれなかった理由があるのだろう。
澄香はしぶしぶながらもこくりと頷き、新たな土曜日の予定を手帳に書き入れた。