7.夢じゃない その1
「澄香。来週の土曜日のことだが……」
「あっ、うん。大西君には悪いけど。あたし、行かないから」
「そうだよな。俺と一緒ならまだしも。澄香だけを行かせるなんて、どう考えてもおかしいよな」
木戸を新神戸で出迎える日から、ちょうど一週間前の土曜日の昼下がり、澄香は西宮のマンションで、新しく購入したダイニングテーブルに宏彦と向かい合って座っていた。
テーブルの上には宏彦が京都の寮で使っていたコーヒーカップが琥珀色の液体をなみなみと湛えている。
ダイニングテーブルと一緒に購入した食器棚の中には、先月、デパートで宏彦と一緒に選んだカップもきれいに並んでいた。
結婚式の後、この新居で迎える記念すべき朝に初めて使おうと決めているため、まだ新品のままだ。
澄香はいつものようにミルクをたっぷり入れて、コーヒーを口に含んだ。
今日のコーヒーは澄香が心を込めて淹れたものだ。
宏彦が淹れてくれたのと引けを取らないくらい薫り高く、おいしく出来たと思うのだが。
彼の反応が気になる。
澄香は顔の前で立ち上る湯気越しに、宏彦の様子をそっと伺った。
「なんだよ」
カップを手にした宏彦と目が合う。
付き合い始めてもう四ヵ月になるというのに、いまだに宏彦に見つめられると、胸のときめきが抑えられない。
高校二年のあの日からときめき続けている気持ちを今さら替えることは不可能だ。
「な、なんでもない」
澄香はそう言って慌てて目を伏せ、ごくごくとまるでジュースでも飲むかのように、コーヒーを喉に流し込んでしまった。
「熱っ! 」
悲鳴にも似た叫び声を上げ、椅子から勢いよく立ち上がった澄香は、シンクの脇のカゴに伏せてあるグラスを取り、水道の蛇口から水を汲んで一気にそれを飲んだ。
シンクの淵を掴み、肩で大きく息をする。
六月の水道水は思ったほど冷たくはない。口の中がまだひりひりする。
もう一杯水を飲もうとしたら、後から手が伸び、何かがカランと音を立ててグラスに落ちた。氷だ。
「澄香……。俺に合わせてホットのまま飲むから、そうなるんだよ。これからはアイスコーヒーにしよう。俺もそうするから。でも……。今日のコーヒー、うまかった。俺が自分で淹れたのより、ずっとうまい」
宏彦が入れてくれた氷のおかげで、口の中の痛みも、心なしか和らいだような気がする。
グラスをすすいでカゴに入れ、振り返ると。
やっぱりまだ宏彦がすぐそばに立っていて。彼は目を細めて、澄香を優しく見つめていた。
さっき褒めてくれた言葉も本当はしっかりと聞いていたのだ。
うまかったの一言があまりにも嬉しすぎて、ひとりでに顔がにやけてしまい、まだ元に戻らない。
そんな自分の姿を見られたくなくて、そ知らぬふりで氷の入った水を飲みグラスを片付けたのに。
宏彦の手が振り向いた澄香の髪を撫でるようにすべり降り、そのまま背中に添えられて抱きしめられる。
いつもはマンションに入るや否やそうなるのに、今日は何も起きないままコーヒーまで飲んで、穏やかに土曜の午後を過ごせるんだと思ったのも束の間。
やはりそうではなかったようだ。
「なあ、澄香」
「なあに、宏彦」
「来週、木戸を迎えに行かないときっぱりと言ってくれて、実のところ、ホッとしたよ。めちゃくちゃ嬉しい」
「宏彦……」
「大西や他の仲間たちの期待を裏切って悪いとは思う。でも、澄香も式に招待されている以上、大西の言うことにも一理ある。でも、こんな俺が間違っているのか、それとも、俺の度量が狭いのかと自分自身に何度も問いかけてみたんだ。でも答えは同じ。やっぱり行って欲しくない。澄香と木戸が何でもないのはよくわかっているつもりだけど、いざとなると、木戸に会わせたくなくなる。あいつの結婚式だって、本当は俺一人で出席したいくらいなのに」
「宏彦は、何も間違ってないよ。もしこれが逆の立場だったら。あたしだって、宏彦を行かせたくなんかないもん」
「そうか。そうだよな」
澄香は木戸に会いたくないというのは本心だった。
でもメル友になりつつある木戸の彼女は別だ。
あの二月の出来事以来、ときどきメールをよこしてくる彼女とは、同じく結婚を間近に控えた者同士、話がはずむこともある。
ただし、それも住んでいる場所が離れていて、メールであればこその良好な関係なのだと思う。
実際問題、一度は疑いを持った相手女性が、自分の夫になる人物を出迎えるなど、言語道断に違いないことだから。
「それに、さくらさんにも悪いもの。いくらあたしと木戸君が何もなかったって信じてもらえたとしても、木戸君は……」
「澄香が、好きだった……。また再燃されたらたまったものじゃない」
「そんなことはない。絶対にないよ。木戸君はさくらさんを……」
「わかってるって。そんなことくらい、わかってる。でも、俺。自分がこんなにも嫉妬深い人間だって、澄香と付き合うまで全く気がつかなかったよ。澄香に外で働くなとは言わないが、職場にいる男どもですらみんな敵に見える。出来ることなら、女性ばかりの職場に移動して欲しいくらいだ。俺がもっと稼げるようになったら、澄香を家に閉じ込めておきたいとまで思ってしまう。なんて嫉妬深い男なんだ」
澄香を抱きしめる宏彦の腕に一層力がこもる。