6.どうして?
「さくら? どうしたんだ? 」
「あら、翔紀。久しぶり。元気だった? 」
澄香の背後からさくらを呼ぶ木戸の声がすると同時に、彼に気付いた白いワンピース姿の片桐が、これまで澄香には見せたことのないような笑顔になり、自分の存在を誇示するかのように、大きく手を振ってみせる。
でもそんなことに時間を取られている場合ではないのだ。
「木戸君、大変なの。さくらさんが、さくらさんが……」
片桐の笑顔を遮断するように澄香が振り返り、すぐ後の木戸を見上げた。
「池坂、どうしたんだ? もしかして、あいつ、逃げ出したのか? 」
「う、うん。早く追いかけなきゃ。あたし、行って来る。宏彦にそう伝えて! 」
「それはもちろんだが。宏彦……か。そうだよな、君は加賀屋と結婚するんだもんな。そう呼んだって不思議でも何でもないことだけど……」
「う、うん。ごめんなさい……」
澄香はつい宏彦と口走ってしまった自分が恥ずかしくなり、木戸から目を逸らした。
「謝ることなんてないだろ。いや、なんかこっちが照れてしまって。まあそんな話は今度ゆっくり聞くとして。なあ池坂。さくら、君に何か言ってなかったか? 」
「あっ、うん。それが、その……」
澄香は後の片桐にちらっと視線を向けた後、もごもごと口ごもる。
突然この場に姿を現し、これまでの経緯を何も知らない片桐の前で、さくらと木戸のデリケートな問題を暴露してもいいものかどうか、迷っていたのだ。
「ねえねえ、翔紀ったら。あたし、ここにいるんだけど。仕事が終わって、すぐに成田から神戸に駆けつけたっていうのに。あなたたち、ひどすぎやしない? さくらさんって誰? そんなことより、早くみんなのところに連れてってよ」
口をへの字に曲げた片桐がまるで駄々をこねる子どものように、わがままを言う。
「ああ、先輩。わざわざありがとうございます……って、どうして先輩がここに? いや、それより池坂。さくらはどっちに行ったんだ」
「向こうよ。東の方に。木戸君の実家方面に行ったんだと思う。でも、明日には必ず式場に顔を出すって」
「明日には顔を出すだって? じゃあ、今夜はもどらないつもりなのか? あいつ、どこまで俺を振り回したら気が済むんだ。俺、今から、心当たりを探ってみるよ。池坂、いつもこんなことになってごめんな。でも、普段はあんなんじゃないんだ」
木戸はぐしゃっと自分の髪を掻き毟り、苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「わかってるって。木戸君の選んだ人だもの。さくらさんはとてもかわいくて聡明な人よ。今は少し混乱してるだけだと思う」
「そう言ってもらえると、助かるよ。俺がしっかりしてないから、あいつを不安にさせるのかもしれないな。悪いけど池坂、店にいるみんなに、さくらを探しに行ったと伝えてくれないか? 君はみんなと一緒に店で待っててくれ。あいつを見つけ出したら、ちゃんと謝らせるから」
「木戸君、ちょっと待って! 今夜は実家に泊まるの? 」
澄香は今にも走り出そうとする木戸を、寸手のところで呼び止める。
「いいや。実家は祖父母や遠方の親戚がやって来て定員オーバーな上に、あいつに気を遣わせるのもかわいそうだろ? だから式場近くのホテルを予約してるんだ」
「じゃあ木戸君は、ホテルや式場周辺を探してみて。あたしが、木戸君の実家周辺を探してみる。こうなったら手分けをした方がいいと思うの」
「でも、君にこれ以上迷惑はかけられないよ」
「そんなこと言ってる場合じゃないし。さくらさんの今の気持に一番近いのはあたしだもの。何か力になれるかもしれない。だからそうさせて欲しいの。それじゃあ、あたし行ってみるね。宏彦にはすぐにメールしておくから」
「わかった。池坂、ありがとう。じゃあ俺もすぐにホテルに向かう。あっ、俺の携帯番号は? 」
「昔のままでしょ? 」
「ああ」
「なら大丈夫。まだ登録してるはずよ。さくらさんを見つけたら、すぐに連絡するね」
澄香は木戸にそう言って、そのまま駆け出そうとした、が。
「ちょ、ちょっと。あなたたち、どこに行くの? あたし、困るんだけど。何とか言いなさいよ! 」
片桐が慌てふためき、あろうことか澄香の袖を引っ張っる。
「あ……」
「そりゃあ、池坂さん、あなたがあたしのことを嫌ってるのは百も承知よ。あたしだって、あなたなんか……。でもいくらなんでもひどすぎない? あたしを見るなり逃げるようにどこかに行っちゃうだなんて。それに何よ。あなたこそ、野球部には何も関係がないくせに、どうしてここにいるの? さっき翔紀があたしに言った言葉、そっくりそのままあなたに返すわ」
「いや、そ、それは……」
片桐の口元が勝ち誇ったように澄香をなじる。
あの時と何も変わっていない。いやその威圧感たるや、あの時以上かもしれない。
「先輩、すみません。ちょっといろいろありまして。中にみんながいるので、俺と池坂がさくらを探しに行ったと伝えていただけないでしょうか。よろしくお願いします」
木戸に便乗して、澄香も片桐に向かって軽く頭を下げた。
本当は顔も見たくないほど憎い相手だけど、この際仕方がない。
いくら憎っき恋敵であっても、こんな緊急事態で意地を張るのは得策ではないと思った。
「え、ええ? やだ。何? さくらって、もしかして、翔紀のカノジョなの? もう、どうなってるのよ。……あっ、もしもし。あたし。今、店の前。何がなんだかさっぱりわからなくて。とにかく出て来てよ。ねえ、ひろ……」
片桐がおもむろに携帯を取り出し誰かに話し始めた時、引っ張られていたままだった袖から手が離れた隙を見て、澄香が駆け出す。
木戸もほぼ同じタイミングで澄香と反対方向に走って行った。
澄香にはもちろんのこと、木戸にも全く相手にされなかった片桐が、店の中にいる誰かを呼び出したのだろう。
途中で走り出したのではっきりとは聞き取れなかった。
でも、今確かに聞こえたのだ。宏彦らしき名まえが。
彼女が呼び出したのは、宏彦なのだろうか。
じゃあ、この集まりがあるのを片桐に知らせたのも宏彦という可能性が高い。
そんなことは一言も言ってなかった。大西や他のメンバーも全くそのことには触れていない。
ということはやっぱり……。宏彦は、まだ片桐とは切れていないのだろうか。
先輩後輩の関係は何があっても一生続くことはわかっている。
野球部の集まりがあれば顔を合わせることもあるだろう。
でも、こういう時に呼び出す相手が宏彦というのは、どういうことなのか。
婚約者がいるとわかっていて、それもその婚約者の目の前で電話をするだなんて、挑発以外の何物でもない。
そして、誕生日のプレゼントを渡すため京都に行ったあの日に巻き起こったトラブルが全て解決したと思われたのに、尚先輩とコンタクトを取っている宏彦にも納得がいかない。
澄香は走るスピードを緩め、ゆっくりと振り返る。
すると。片桐が店から出てきたスーツ姿の男性の腕にすがりつくようにして密着しているのが見える。
離れているけれど、見間違いではない。
コンタクトを装着した澄香の視力は安定していて、つい最近の定期検査でも正常な矯正視力を維持していた。
顔がはっきり見えたわけではない。遠すぎるのだ。
だが、それが宏彦であるのは一目瞭然だった。
夫になる人のシルエットくらい、どんなに離れていても、見分けられる自信がある。
それに。今日集まったメンバーの中でスーツを着ているのは……。
仕事帰りの宏彦だけなのだから。
澄香はさっき片桐に掴まれた袖を力任せに握り締めた。
皺になろうが、破れてしまおうが。もうどうでもいいと思った。
再びスピードを出して、走り出す。
次の角を右に曲がり、べったりとした潮風を顔や髪に真正面から受けながら、長い坂をがむしゃらに駆け下りて行った。