13.高校二年生 その7
ロビーに静けさがもどり人影がまばらになっても、澄香はその場から動けなかった。
さっき見た光景が脳裏から離れないのだ。
もう望みは絶たれてしまった。宏彦は、あの先輩と付き合っていたのだ。
何も知らなかった自分が滑稽に思える。
だって彼ほどの人物に彼女がいない方が不自然だということにどうして今まで気づかなかったのか。
そんな自分に対して情けなく残念な思いしかない。
雨はまだ降り続くのだろうか。
ロビーに点いているはずの蛍光灯が心もとないほど、辺りは薄暗かった。
その時、ふと人の気配を感じ、斜め前の靴箱の裏側に目を向けた。
澄香がいることに気付いたのだろうか。
その誰かが上半身を横に傾けてこちらを覗き込んでくる。
「あれ? もしかして、池坂? こんなところで、何してるんだ? 傘、持ってないの? 」
不思議そうな面持ちのその人と、顔を合わせてしまった。
それは、今、このタイミングで絶対に会いたくない人……。
木戸翔紀だ。
「木戸君……」
「まさかと思うけど。俺を待っててくれた? なんてことは、ないか……」
「あたしは、その……」
木戸の言うとおり、彼を待っていたのではない。
けれど、宏彦との一連のやり取りを話すのは、やはりためらわれる。
「待っていてくれたのなら、嬉しいけど。まあ、そんなことはいいとして。俺、当番日誌書いてたら、教室出るのが遅くなってしまったんだ。みんな、帰るの早いな」
木戸はにかんだような笑みを浮かべ、素早く靴を履き替えた。
日に焼けた肌に、笑顔と共にのぞく白い歯。
そして、スポーツマンらしい短髪に、澄香より頭一つ分は高い背丈。
次期野球部キャプテンとしての資質を十分に備えた、今時珍しいほど真面目で堅物な木戸は、澄香を前にしたとたんそれまで保っていた厳しい表情を緩め、今まで誰も見たことのないような優しいまなざしを彼女に向けるのだ。
でも澄香は何度この笑顔に出会ってみても、彼氏として、あるいは恋人として、木戸が彼女の隣に並ぶことはこの先も絶対にありえないとわかっていた。
なのに木戸は、手に持っていた黒いジャンプ傘を、さりげなく澄香の前に差し出すのだ。
「使えよ。俺は別に、濡れてもかまわないから」
「あ、いいの。傘は、あるから……。マキ、あー、いや、花倉さんを探していたんだけど、会えなくて。先に帰ろうと思ってたところなんだ」
澄香は、そこに立ちすくんでいた本当の理由を木戸に知られたくなくて、適当に思いついた理由を口にする。
一刻も早くここを立ち去った方がいい。
木戸が背を丸めかがみ込み、靴ひもに手をかけたタイミングを見計らって、じゃあお先にと言ってその場から逃れようとしたのだが。
敵も心得たものだ。そのまま簡単に引き下がるわけもなく。
「おい、池坂。待ってくれよ。一緒に帰ろう」
足早に校門に向かった澄香を追うようにして駆けてきた木戸が、あっという間に彼女の横に並んだ。
それぞれに傘をさし、その上に意識的に距離を取って歩く二人は、誰の目にも完全に他人同士に映るはずだ。
下校のピークを過ぎた今では、興味本位に二人を眺める生徒も辺りには誰一人いない。
けれど、どうも木戸といると澄香は普段の自分でいられなくなる。
沈黙がこのまま永遠に続くのかと思うほど澄香を包む空気は重く、水溜りにはねる雨音がただただ無機質な打音を響かせる。
木戸は電車通学のはずなのだが、どこまで一緒に歩いて行くのだろうと、徐々に心配になってきた。
「池坂の家まで送るよ。確か、加賀屋んちの近くだったよな? 」
澄香の家へと続く坂道の前で木戸が立ち止まり、前を向いたままそんなことを言い出す。
「あいつの家には何度も行ったことあるからあの辺には詳しいんだ……」
「でも、あたし、大丈夫だから。一人で帰れるし」
もう充分だった。一秒でも早く木戸の元から立ち去りたい。
「俺、いつもあいつに救われてるんだ」
澄香の言ったことを聞いているのかいないのか、木戸は表情を変えることなく話し続ける。
そしていつしか宏彦のことを語り始めるものだから、立ち去るタイミングを失ってしまった。
澄香の心臓は、あろうことか急に早鐘を打ち始めた。
木戸の口からこぼれ出る宏彦の名前に無意識に反応してしまうのだ。
こればかりはどうすることもできない。
「あいつって、案外楽天家だろ? 俺がいろいろと思い悩むたちだから、あいつの、気にするな、の一言にいつも助けられてる」
「そ、そうなんだ。木戸君たち、仲いいもんね」
木戸が何を思って澄香に宏彦のことを話しているのか理解に苦しむが、相づち程度に返答する声ですら上ずってしまう。
「ああ。あいつと出会えて本当に良かったと思ってる。今だから言うけど、俺、池坂に、その……。付き合って欲しいと言う時、あいつに頼んだんだ」
澄香の顔が一瞬こわばった。
やはり宏彦は、すべてを知っている。木戸の気持を知っていたのだ。
「とても自分から君に話す勇気なんてなかったから、加賀屋からそれとなく伝えてもらおうと思ってな。君たち、小学校から一緒だろ? 」
「うん……」
「でもあいつ、きっぱり言いやがった。自分で言えってな。それが紳士ってもんだろって。さすがだよ。イギリス仕込みなだけのことはある。あいつが言うと一味も二味も違うよ。そのとおりだと思った」
ははは……と笑う木戸を尻目に、どこかほっとしたような気持ちになる。
そして、ついさっき会った時の、悲しそうな目をした宏彦の姿が再び脳裏によみがえるのだ。
あの目はいったい何を訴えていたのだろうと。
澄香は木戸が自分で気持を告げてくれて、良かったと思った。
もしも宏彦の口から伝えられていたなら……。
その場面を想像しただけで、身体中の血が凍るような恐怖に襲われる。
そんなことになっていたら、今よりももっと打ちのめされて、心までもが壊れていたに違いないからだ。