5.花嫁の憂鬱 その3
「さくらさん、木戸君は……」
「いいんです、もう」
「そんな。だめよ、さくらさん。木戸君のこと、信じてあげなきゃ」
「先生はあたしのことなんか、ちっとも好きじゃないんです。ただ責任感が強いだけ。あたしにとっては、先生が初めての人だって、あたし、嘘ついたから」
「そんな……」
純情そうなさくらが、そんな手を使ったなんて信じがたいが、何としてもその人に振り向いて欲しい時、人は手段を選ばないのかもしれない。
片桐が宏彦に取った行動も多分同じ類のものなのだろう。
「まさか本当に信じてしまうなんて思ってもみなかった。だから先生は、責任を取ってくれただけ。だって、先生だもの。いつどんな時でも、あの人は先生なの。先生以外の何ものにもなれないの。ねえ、澄香さん。あたしが本当のことを言えば、先生はきっとこの結婚、踏みとどまると思います。今から、全部話して来ます。先生は、責任なんて取る必要はないって」
「さくらさん。どうして自分ひとりですべてを決めてしまうの? なんで、木戸君があなたを好きじゃないって言い切れるの? 」
「だって、全部あたしからなんです。交際を迫ったのもあたし。結婚をせがんだのもあたし。先生からは何も行動をしてもらえなかった。あたしのことなんて好きでも何でもないんです。ただあたしがそこにいたから付き合っただけ。手軽に抱けるから、結婚も承諾しただけ……。きっと、それだけなんです」
「さくらさん。いくらなんでもそれは違うと思う。あなたも知ってるとおり、木戸君はあたしの彼の親友なの。宏彦がそんなひどい人と親友になるはずがないでしょ? 交際のきっかけは、さくらさんが与えたかもしれない。それは教師である木戸君の理性がそうさせただけ。生徒だったあなたを大切に思っているならば、自分からは手出しできないでしょ? 」
「でも……」
「それがあたしのせいだって言うのなら、謝る。ごめんなさい。さくらさん、お願い。あたしのこと、どうか許して下さい。自分でも気付かないうちにあなたを傷つけてしまっていたのかもしれないもの」
「別に、あなたに謝ってもらわなくてもいいんです。澄香さんは、あの素敵な人と結婚するんですよね? でも先生は、そんな澄香さんを、まだ好きで……。そうに違いないんです。あたしにはわかるんです」
さくらの思い込みが覆ることはない。それでも澄香はあきらめなかった。
言葉を選び、決して声を荒立てることなく話し続けた。
「だから今夜、二人でもう一度よく話し合ってみて。それから結論を出しても遅くない。ね、さくらさん。あたしは、ただ、仕事が忙しい彼の代わりにあなたたちを迎えに来ただけ。そして、さくらさんに会えるのが楽しみだった。木戸君は関係ないの。木戸君が思ってる人は、さくらさん、あなただけだわ」
「澄香さんって、やっぱり優しい人。みんなから好かれて、人気者で。先生が澄香さんを忘れられないのがよくわかります。あたしなんて、まだまだ子どもで、わがままで。先生の足を引っ張ってばかり。この結婚、最初から無理だったんです。どれだけ話し合っても、答えは一緒です。あたし……。今夜、一人になりたい。一人でゆっくり考えたい。澄香さん、これ」
さくらが、突如抱きしめていたボストンバッグを澄香に押しつける。
「先生に渡しておいて下さい。明日、結婚してもしなくても、必ず式場には顔を出します。今日で最後になるかもしれない、あの人が青春時代を過ごした神戸の町を。この目でゆっくり見てみたい……。澄香さん、ごめんなさい」
さくらにボストンバッグを押し付けられた澄香は危うくバランスを崩しそうになり、化粧室の壁に倒れ掛かった。
体勢を立て直した時には、さくらの姿はどこにもなくて。
重いボストンバックをまるで赤ちゃんを抱くように抱え込んで、さくらが走って行った方向を呆然と見ていた。
こんなことをしている場合ではない。早く彼女を追いかけなければ。
ちょうど通りかかった店員に手短に事情を説明して、ボストンバッグを預かってもらった。
そういえば、今年の冬の同窓会でこの北野の町を一人で駆け下りたのは自分だったと思い出す。
宏彦に彼女がいると思い込み、彼をあきらめるため、夜の神戸を彷徨ったのは、まぎれもなく澄香自身だった。
店の外に出て、左右、どっちに行こうかと迷う。
木戸の実家は、北野から東の方向にある。彼の過ごした町を見てみたいと言うさくらの言葉が真実ならば、東に行った可能性が高い。
澄香は低めのサンダルを履いてきたことに胸を撫で下ろしながら、東に向かって駆け出した。
でも、その計画もすぐさま終焉を迎えることが判明する。
「あら。久しぶりね、池坂……さん? 」
澄香は、白いワンピース姿のその人に行く手を阻まれる。
「どこに行くの? 宏彦も来てるんでしょ? 翔紀は、元気そうかしら」
真っ赤な口紅をつけたその人から宏彦の名が告げられたその瞬間、まるで危険を知らせるかのように、澄香の心臓が激しく鼓動を刻み始めた。