1.愛は突然に
高校生の宏彦と澄香が、お互いを初めて意識した日のひとコマです。
宏彦視点の甘酸っぱい春の日を書いてみました。
「おい。加賀屋! どうしたんだ」
木戸がキャッチャーマスクをはずしながら、宏彦のそばに近寄って来た。
「あー悪い。何でもないよ。続けよう」
「いや、それにしても……。制球、乱れてるぞ。おまえらしくないな」
「そうか? 俺なら、いつもどおりだが。なあ木戸。試合も近いんだ。こんなことをしてる場合じゃないだろ? 早くやろうぜ」
宏彦はボールを手に馴染ませるように何度も握り直す。
「俺の目をごまかせると思うな。加賀屋、今日はもういい。大西に代わってもらえ」
「木戸……」
宏彦は西に沈みかけている夕日を背に、東の空を見上げた。
雲ひとつない、晴れ渡った空だ。
そして、ついさっきグラウンドを横切り、テニスコートへ駆けて行ったクラスメイトに思いを馳せる。
「やっぱり俺。……今日はこれでやめるよ」
宏彦はユニホームの袖で額の汗を拭い、ボールを木戸に渡した。
「加賀屋。さっきから右胸の上あたりを押さえてるだろ? 痛むのか? 」
「あ、ああ……」
木戸の真剣な眼差しが宏彦の瞳を射抜く。
木戸はどんな状況であっても、常にマウンド上の宏彦を視野のどこかに捉えている。
宏彦すら気付かないその日のコンディションも、すべて彼は把握しているのだ。
そんな木戸に、ここに彼女の肩が当たったから……などと誰が言えるだろう。
痛みなど、どこにもありはしないというのに。
そこには、彼女のあまやかな残像だけが、しっかりと焼きついているのだから。
「去年痛めたひじをかばってるんだろ? 胸の筋肉に負担がかかってるんじゃないのか? 」
「いや、それは……ない」
木戸の心遣いは嬉しいが、今はそうではない。
痛むのは、宏彦の心なのだ。
「無理すんな」
木戸が元気付けるように宏彦の肩をぽんと叩く。
「うん……。なあ、木戸」
「なんだ?」
「あっ、いや、いい。なんでもない」
宏彦はそこまで出かかった言葉を飲み込む。
木戸が彼女のことを好きなのは、紛れもない真実だ。
今さら訊いてみたところで、どうなるわけでもなく。
「じゃあ、あとは大西に頼むよ。ちょっと外を走ってくる」
宏彦は大西に投球を任せ、バッティング練習のマウンドを降りた。
校門を出て、学校の敷地を周遊する歩道を走り始めた。
ここならもうテニスコートは見えない。
彼女に会うこともないだろう。
さっきの出来事など、すべて忘れ去るくらいまで走り続けたい。
走って走って走りぬいて。
彼女の顔も、声も、何もかもすべて自分の身体から消え去るまで走り通したいと思った。
今までこんなことはなかった。
練習に支障をきたすほどクラスの女子のことを考えるなど、宏彦に限ってはありえないことだった。
彼女のことは前から知っていた。
同じ中学から進学してきた同級生だというくらいなら……。
木戸が彼女を好きだと言った時には、何も思わなかったのに。
どうしてこんな気持になるのだろう。
今回初めて同じクラスになり、教室で彼女を見つけた瞬間から、目が離せなくなってしまった。
廊下でぶつかった後のきょとんとした顔に、一瞬にして心まで奪われてしまったのだ。
近所に住んでいながら、まるで初めて出会ったような顔をして宏彦を見ていた彼女の眼差しは、彼の網膜に焼き付いて消えることはない。
歩道脇に茂っている生垣の新緑が香る。
満開の桜も、次の雨で全部散ってしまうのだろうか。
そういえば、あれはイギリスに行く前のおだやかな春の日だったと思う。
家の近くにある公園で、弟の鉄棒の練習に付き合っている女の子がいた。
何度も何度も逆上がりに挑戦する弟は、女の子の容赦ない叱咤の声にいつしか悔し涙を流し、それでもやめることなく、日が沈むまで鉄棒にしがみついていた。
一緒に遊んでいた草野球のメンバーも、一人減り、二人減り、いつの間にか誰もいなくなる。
宏彦が家に帰るためグローブを引っ掛けたバッドを肩にかついで公園を横切った時に、声が聞こえたのだ。
女の子に手を引かれたあの弟が、お兄ちゃんばいばいと言って、宏彦に向かって手を振っていた。
逆上がりが出来るようになったのだろうか。
それとも……。
弟は、案の定、寂しそうな、そして、少し悔しそうな顔をこちらに向けて、遠慮がちに手を振り続けている。
この様子だと、きっと明日も厳しい特訓は続くのだろう。
よく見ると、姉である女の子に、見覚えがあることに気付いた。
しかし彼女は一度も宏彦に目を合わせようともせず、ノブマサ、もう帰るよと、弟の手を引きずるようにして桜の散る公園を去って行く。
その女の子こそ。
確かに、彼女だったのだ。
ちょうどテニスコートの裏手あたりに差し掛かった時、黄色いボールが、バウンドしながら転がって来た。
植え込みの向こうにあるフェンスを越えて、飛んできたのだろうか。
外からは見えないが、多分ここの裏手がテニスコートの位置になるはずだ。
そして、茂みが揺れたかと思うと、さっきのジャージ姿の女子が歩道にひょこっと顔を出す。
フェンスにある通用門を通ってボールを拾いに来たに違いない。
多分、池坂だ……。
ボールは、もう少し先の歩道と道路の間にある溝に落ちたように見えた。
彼女に場所を告げようと近寄りかけると、もう一人の女子が大声で、あっちだよと叫ぶ。
彼女がその方向に走り、しゃがみこんでボールを拾い上げた。
「ボールあったよ、かっちゃん! 」
そう言って、手に持ったボールを大きく振って仲間に見せているのは、やっぱり池坂だった。
宏彦は帽子を深く被り直し、ひとつ手前の路地を住宅街の方向に曲がる。
少し遠回りになるけれど、彼女にここにいることを知られるのは、どこか気恥ずかしかったのだ。
彼女は多分、気付いていない。
宏彦がこんなにも近くにいたことに。
いつしか宏彦の頭上の空が夕焼け色に染まり始める。
少し冷たくなった風が、ひゅうっと音を立てて吹きつける。
この季節に吹く風は気まぐれだ。
それはまるで春風のいたずらのように、宏彦のユニホームの背中越しを一気に駆け抜け、何もなかったかのように通り過ぎていった。