11.王子様は秘密主義 その2
どうしてこんなにも時間が経つのが遅いのか。
まだここに来てから十分しか経っていない。
澄香は今ごろ美容院の鏡の前で、ヘアスタイルに注文をつけているのだろうか。
せっかくあそこまで伸びた柔らかくていい香りのする髪に、出来ることならハサミを入れて欲しくなかった。
いっそのこと、途中で下車させずに、ここに連れて来た方がよかったとさえ思う。
抱きしめた時、鼻先をくすぐる髪も。
撫でた時、指先にしっとりと絡む髪も。
そして首筋に口付けた時、唇の表面をすべり落ちる髪も。
そのすべてがどうしようもないほど愛おしいのだから。
「……おい、かがちゃん? おーーい! おまえ、大丈夫? 」
宏彦の目の前に、むさ苦しいひげ面がどーんと待ち構える。
以前より体格も一回り大きくなった大西が、風貌に似合わないまん丸のかわいらしい目を宏彦に向けるのだ。
「あ、ああ。ごめん。ちょっと、いろいろあって……」
「そんなにカノジョが恋しいんか? 」
「いや、まあ」
「ああ、うらやまし! なんか、眠そうやけど。仕事も大変そうやし。今夜は京都に戻るんやろ? 」
「京都? 」
「えっ? 」
大西が不思議そうに訊き返す。
「そうか……。おまえにまだ言ってなかったな」
「うん。何も聞いてへんけど。いったい何のことや? おまえの寮、京都やろ? 」
大西がきょとんとして、ラージサイズのカフェラテを機械的にゴクゴクと喉に流し込む。
「引っ越した」
「ええ? そうなん? で、どこに引っ越したん? 」
「西宮に」
「西宮? それまた不思議な引越しや。西宮やったら、実家でもええんちゃうん。なんで西宮なん? 」
「結婚……する」
宏彦の返事を聞いたとたん、大西がゴホゴホと派手にむせた。
「あー苦しい……。お、おまえ。結婚、すんの? ホンマに? えらいこっちゃ。残業増やさなあかんやん。木戸ももうすぐ結婚するんやで。祝儀貧乏になりそうや。ホンマえらいこっちゃ」
大西が携帯を取り出し、野球部連絡網を発動させようとする。
「それで、相手は誰なん。西宮に住むんやったら、こっちの人やろ? それに学生でもなさそうやし。みんなにも知らせなあかんから早よ教えて」
「大西。ちょっと、待て! 待ってくれ! 連絡は後にして、とにかく俺の話を聞いてくれ」
大西が怪訝そうに宏彦を見ながら、しぶしぶ携帯を置く。
「誰なんや。ほんまガード固いな。早く言えよ。もしかして……。俺の知ってる人なんか? 」
宏彦は無言のまま、大西をじっと見据えた。
そうだと頷けば、大西が羅列するであろう名前の中に、澄香が登場するのは時間の問題だ。
こう見えて大西は、律儀で口も堅い。
冷やかし半分でクラスの皆に風潮することもないだろう。
宏彦は肩の力を抜き、ふうっと息を吐いた。
ここまできて、黙っておく必要性ももうないだろう。
これが潮時というものだ。
澄香、悪いが、先に報告させてもらう。
宏彦は、意を決して話し始めたのだが。
「大西。結婚相手のことだが、実は……」
せっかくの宏彦の決意を打ち消すかのように、テーブルに載せている携帯が振動する。
電話だ。大西にごめんと言って、再び店の外に出た。
『もしもし。加賀屋か? 』
「はい。橋田さん……ですよね? 」
『そうだ。俺だ。橋田だ。あのな、加賀屋。やっぱりあの噂、本当だったんだ。A物産、危ないらしい』
「えっ……」
宏彦は思わず絶句する。
『今、亀岡にいる。休みのところすまないが、俺が大阪に着くまで、先に大阪支社に出向いてくれないか? 無理ならばそう言ってくれ』
「いや、大丈夫です」
『ホントにかまわないのか? 』
「すぐに大阪に向かいます。今ちょうど三宮なんで」
『そうか。助かるよ。大阪支社もA物産の堺店と取引があるんだ。じゃあ、よろしく』
「はい、わかりました」
宏彦は大西に緊急の仕事が入ったことを告げ、コーヒーショップから慌てて飛び出した。
こうなるだろうことは橋田からすでに聞かされてはいた。
長期休暇が明けたら必ずや対峙しなければならない問題が、少し早まっただけだと思えばいい。
A物産は橋田の担当で、宏彦も一時期関わったことがある。
もちろん断ることも出来るのだが、彼に頼まれれば、地球の裏側にいたとしても駆けつける覚悟は出来ていた。
宏彦が業績を伸ばせず仕事に前向きになれなかった時、毎晩飲みに連れ出してくれて、話を聞いてくれたのは橋田だった。
橋田のためならどんな協力も惜しまないと、宏彦は以前から腹をくくっていたのだ。
大阪に一番早く着く手段を考えながら、駅に向かう。
美容院の椅子で自由が利かないであろう澄香には、あらましをメール送信しておいた。
すると間髪入れずに大西からメールが入る。
かがちゃん、ご苦労さんです。
もうちょっとでカノジョのこと
教えてもらえたのにな。
ホンマ、残念やわーー。
まあ、仕事やったらしょうがない。
がんばれ。心置きなく戦って来い!
同窓会は俺にまかしとき。
その代わり遅れてもええから
仕事が終わったら絶対顔出してや。
何時間でも待ってるで。
話しの続きも、必ず聞かせてくれよな。
カノジョにもちゃんと連絡しとけよ(ハート)
文章の最後についている、取って付けたようなピンクのハートマークにおかしさが込み上げてくる。
宏彦は大西や他のクラスメイトの驚く顔を見るためにも、少しでも早く仕事が片付くようにと祈りながら、東行きの電車に駆け込み、大阪に向かった。