10.王子様は秘密主義 その1
宏彦視点になります。
電車のドアが閉まる。
窓の向こうでホームに下りたばかりの彼女が手を振っていた。
あ、と、で、ね、と口の形で宏彦に言葉を送って来る。
同じように大きく口を開けて、あ、と、で、と返した。
そして、彼女に向けて大きく手を振った。
すると、急にそんな自分が恥ずかしくなり、電車がホームから離れ澄香が見えなくなったと同時に、人目を避けるように違う車両へと移動した。
今まで、人目を気にせずベタベタしているカップルを見ては、よくもあんな恥ずかしいことができるものだと苦々しく思っていた。
ところが、だ。
その目を覆うような失態を、嬉々として自ら進んでやってしまっているのだ。
まるで世界は二人のためにだけあるかのような錯覚が、あたかも当然のように自分を取り巻く。
愛し愛されるということは、それまで培ってきた人間性をも変えてしまうほどの威力を持っているのだと、改めて思い知らされる。
大西からは、四時に三宮のいつものところでと連絡が来ていた。
携帯を取り出し、再度場所の確認をする。
駅北側のフラワーロード沿いにあるコーヒーショップだ。
もうひとつの大きなチェーン店より、こちらの方がいいというのは、珍しく大西と同意見だった。
今夜の同窓会の最終的な人数確認と、今後の幹事及び同窓会のあり方について共通理解しておくというのが打ち合わせのもっともらしい理由なのだが、そんなことは会が始まってから皆で決めればいいという、能率的かつ至極真っ当な宏彦の意見は、いとも簡単に却下されてしまった。
同窓会の前に、宏彦の近況をすべて把握しておきたいというのが、大西の本意なのだろう。
そのあからさまな魂胆などとっくに気付いてしまっている宏彦は、あきらめにも似た面持ちで、ため息と共に三宮に向かっていた。
「よおっ、かがちゃん。あれ? なーんや、一人か。まあええわ。居酒屋の交渉、サンキュー」
あきらかに誰が見ても大きすぎる頑強そうなヘッドフォンを装着して、それを耳に覆ったままリズムを取っている大西が、コーヒーショップの最奥のテーブルで手を挙げ、宏彦をこっちこっちと招く。
時刻はちょうど四時。
遅刻の常習犯の大西がすでに待ち合わせ場所に来ていることに驚きつつも、宏彦は注文したレギュラーサイズのホットコーヒーを持って、彼の向かいに座った。
「で、最終の出席人数はどうなったんだ? 変更は? 」
宏彦はあの話には触れずに、いきなり同窓会の本題を持ち出す。
「予定プラス1や」
「わかった」
居酒屋に出席人数を伝えるため、宏彦は携帯片手に立ち上がり、店の外に出た。
手短に電話を終えると、またすぐにテーブルに戻り、見れば見るほど大げさな某有名メーカーのヘッドフォンを、さも大事そうにそっとはずした大西と向き合う。
「なあ、大西。まだ四時過ぎだ、いくらなんでも早すぎるだろ? 今から集合時間まで、どうするんだよ。ここで時間をつぶすのか? 」
いかにも大西が言いそうな返事の予想はつくが、訊かずにはいられない。
あと二時間もどうしろというのだ。
怒りがふつふつとわいて来る。
「そんな、早すぎることなんかあらへんって。幹事のこともあらかじめ決めとかなあかんし。それに、かがちゃんホンマ、水臭いわ。なあ。前の話しやけど、カノジョはどうしたん? なんで一緒に来ーへんかったんよ」
大西のどんぐり眼がますます丸く大きく見開かれる。
その目が早く彼女に会わせろとあからさまに訴えていた。
「あ、ああ。そのことか」
「そのことかって……。なあ、かがちゃん。何、とぼけてるん。もしかして、なかったことにしようと思てた、とか言うんと違うやろな? 」
「うっ……。できることなら」
いつもより苦く感じるコーヒーを口に含みながら、苦しみ紛れにボソッと答える。
「って、なんでやねん! 今日の同窓会は、かがちゃんのカノジョが見たいから、みんな来るんやで。ホンマ頼むわーー。今さら、それはなしとか言わんとってやー」
大西の冴え渡る見事なつっこみのあと、トレードマークの毛虫のような眉毛がハの字に下がる。
「ああ、わかった、わかったよ。彼女も来るから。ちゃんとみんなに紹介するよ」
「絶対やで。ほんなら、俺にだけ先に会わせてえな。なんでそんなに出し惜しみしてるん? 別に横取りしようなんて思わへんで」
「はあ? あとで来るって言ってるだろ? なんでおまえに先に会わせなきゃならないんだよ」
「いや、だから。友達として、先に知っておいた方がいろいろと都合がええんとちがうかなと思って。いや、別に深い意味はないねんで。それより、なんであとからなん? 一緒に来たらええやん。この黄金週間に仕事でもあるん? それとも、カノジョはまだ学生で、アルバイト中とか? それとも、それとも。もしかして、東京から来るから、まだ神戸に到着してへんとか? 」
宏彦の顔色を窺うようにして、次から次へと様々なイメージの彼女像が大西の口から飛び出す。
「残念ながら、おまえの予想はどれもハズレ。もういいだろ? なんで、そんなに気になるんだよ。おまえだって、長い付き合いの彼女がいるじゃないか」
「俺? 俺のカノジョ? そんなん、おったかなあ……」
大西が宏彦から目を逸らし、しらばっくれた視線を彷徨わせる。
「ほらみろ。おまえだって同じじゃないか。自分の女の話を興味本位で話すなんて、誰もしたくないんだよ。そういうのを自慢したいのは、高校生くらいまでだろ? 」
「ま、まあな。でもな、かがちゃんは、昔から秘密主義やったからな。中央高校きっての王子様は、野球部の後輩マネージャーや近隣の女子高のきれいどころにも人気あったのになあ。誰とも付き合わへんし、本命は片桐先輩やと思とったら、それも違うと言うし。いい加減、白状してくれてもええやん」
「だから、後で紹介するって言ってるじゃないか。別におまえに先に言う必要はないだろ? 秘密主義とでも何とでも。勝手に思ってくれていいから」
「そうですか。俺って、かがちゃんにとって、それだけの存在やったんや。親友や思てたのに、なんや、虚しいな……」
「大西、俺はそんなつもりじゃないんだ。ただ、もう少しだけ時間が欲しい、それだけなんだ」
すべてをぶちまけることができれば、どれだけ楽になるのだろう。
けれど、ここでフライングを冒してしまえば、目の前の男は卒倒寸前になるだろうし、その余波が各所に飛び火することは間違いない。
彼女が不在の場所で、憶測が飛び交うのだけは避けたかった。