8.宏彦のカノジョは…… その1
室内がざわつく。
へえ、そうだったんだと興味本位でこちらを見る視線と、中田の言ったことが信じられないのか、ぽかんとしている顔が入り乱れて澄香の前にあった。
澄香は否定する言葉も思いつかないまま、唖然とした面持ちで棒立ちになる。
そして隣の大西を見た。
元野球部所属の大西なら木戸の結婚のことも周知しているはずだ。
結婚式には同学年の部員全員で、無理やり広島まで押しかける計画があるらしいと宏彦が言っていたのを思い出す。
お願い助けてと澄香は大西に目で訴えた。
初めは怪訝そうに澄香を見返していた大西だったが、ためらうそぶりを見せながらも、ようやく口を開いた。
「池坂は、木戸の、その……。結婚の話は、もう知ってるん? 」
大西も澄香と木戸が付き合っていたと誤解している一人だったのだろう。
元カレの結婚話など、ここで持ち出してもいいものかと、あきらかに躊躇しているようだった。
「知ってる。だから、みんなに本当のことを言って欲しい。ね、お願い……」
澄香は大西に小さな声で頼み込んだ。
ようやく澄香の真意を汲み取った大西は、顔の前でひらひらと手を振りながら、中田や周りの皆に向かって話し始めた。
「それ、ちゃうから。どこをどうやったらそんな話になるねん」
「えっ? どういうことなん? 」
中田が不服そうに大西を見た。
「俺は、高校時代の木戸の恋愛話はよう知らんけど、とにかく木戸の結婚相手は池坂と違うんや。あいつ、広島で高校教師してるんやけど、教え子と結婚する。これは間違いない情報や。教え子とか、ちょっとうらやましい話やけどな」
ええっ? それホンマなん? うそーー! などと嬌声が飛び交い、かえって騒ぎが大きくなる。
大西のフォローで木戸の相手が澄香ではないとわかってもらえたようだが、いまだに木戸との関係を誤解しているクラスメイトが多くいることに、澄香は落胆を隠せなかった。
そして傷ついてもいた。
ならば、今こそ真実をはっきりさせる時なのかもしれない。
「あ、あの、皆さん、聞いて下さい! 」
喧騒を裂くように澄香が話を切り出す。
「これから結婚しようとしている木戸君のためにも、そしてあたし自身のためにも。言っておきたいことがあるんですけど」
思い思いに騒いでいた面々が一斉に澄香に注目した。
「あたし、皆が思っているみたいに、木戸君とその……。付き合ってはいなかった。恋人同士とか、そんなんじゃなくて、ただの友達だった、それだけなの。マキも、ここにいるかっちゃんもゆっこも……そのことは知っています。ね? 」
澄香の左隣で加津紗と由布子がこくこくと頷く。
「だから。もうその話は、今日を最後に忘れて欲しいの。勝手なお願いかもしれないけど、あたしも、けっ……」
結婚が決まってるから、根も葉もない噂話はやめて欲しいと言いかけた直前で、騒動の発端である言いだしっぺの中田が立ち上がった。
決まり悪そうに頭をポリポリと掻きながら。
「なんや、そうやったんか。池坂。そしてクラスのみんな。知ったかぶりしてしもて、ごめん。ホンマにごめんな」
調子者の中田も社会の荒波にもまれて、潔さを身につけたのかもしれない。
澄香に向かって、深々と頭を下げた。
「でもな、木戸の話聞いた時、絶対池坂が相手やと思ったし、情報を流してくれた奴も、そんなニュアンスで言ってたしな。でも、違うんやとわかったら、そいつにも責任持って、ちゃんと否定しとくわ。それにしても池坂、めっちゃきれいになってるんやもん。幸せオーラ出まくってるし、絶対に結婚間近やって、誰でも勘違いするって」
とたん、笑いが起きる。
「木戸とは、なんも関係ないとわかったことやし、俺、池坂ちゃんにカレシとして立候補しよっかな。まずは友達からってことで、どない? 」
やっぱり中田の調子のよさは以前のままだった。
そんなことを言われても、困るだけなのだが。
「いや、それは……。あの、あたし」
「はいはい。中田。個人交渉はそこまでにしといてな。この会が終わってからなんぼでも勝手にやってくれ。それより、ちょっとみんなに相談があるんや。立ったままも何やから、座らせてもらうな。池坂も座って」
今にも結婚のことを報告する寸前だったのだが、絶好のタイミングを削がれた澄香は、大西に促されるまま腰を下ろすしかなかった。
「実はな、幹事のことやねんけど。加賀屋と花倉を、そろそろ解任してやりたいなと思てるねん」
大西は自分の顎に手をやり、ひげをさすりながら言った。
「今日だって、二人とも仕事で遅くなるんや。かがちゃんはさっきまで俺と一緒にこの会の打ち合わせしとってんけど、途中で会社から呼び出しがあって行ってしもて。花倉かて、結婚式の仕事、めっちゃ忙しいらしいわ」
澄香は目を丸くして大西を見た。
そうか。そうだったのかと。
宏彦のいない理由がようやく判明したのだ。
胸につかえていたものが、すっと取れて、気持ちが楽になった。
こうやって休日に仕事で呼び出されるのは、何も今に始まったことではない。
これまでのデート中にも、何度かそういった電話があったのは知っている。
電話で済むこともあれば、仕事場に出向くこともあった。
宏彦がこの場にいないのは辛いが、理由がわかれば少し気持にも余裕が出てくる。
「なあ、大西。こんなん言いたくないけど、かがちゃん、ホンマに仕事なん? なんか怪しくない? ここにカノジョ連れて来るんがいややから、どこかに逃避行してるんちゃうかな? 」