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かくれんぼ  作者: 大平麻由理
番外編 1-4 青春酸歌
109/210

58.星の降る夜に

 次の日澄香は、心配した二日酔いの症状も全くなく、宏彦に指定されたとおり、夕刻に夙川の駅に降り立った。

 宏彦は土曜出勤だというのに、わざわざ仕事終わりに会おうと自らそう言って来たのだ。

 疲れているだろうし、デートは明日の日曜日でいいよと言ったにもかかわらず、彼は頑なに自分の言い分を貫き通した。


 澄香の悩みは、このことだった。

 今日は、三月十四日。

 ちまたではホワイトデーと声高らかに大騒ぎする、恋人同士の運命の日だったりする。

 バレンタインデーのチョコを宏彦に渡せないままになっている澄香は、ホワイトデーに彼に会うのを後ろめたく思っていたのだ。

 宏彦だって口にこそ出さないが、付き合い始めたばかりの彼女に、チョコすらももらえなかったのがショックだったに違いない。

 タイミングを逃してしまった澄香は、出来ることならば、このまま気付かないふりをして、このイベントの日をやり過ごしたかった。

 ちょうど今日は仕事だという宏彦にホッとしたのも束の間、どうしても会いたいという彼の意思を覆せないまま、今日を迎えてしまった。

 梅田方面から駅に入って来た電車を降りた宏彦が、澄香! と名前を呼び、笑顔を振りまきながら駆け寄って来た。


「宏彦……」


 澄香は気持を悟られないよう、表面上はにこっとしながら彼に答える。

 澄香の心情など何も気付いていないかのように、今夜の宏彦は饒舌だった。

 仕事のことやここまでの電車の中の乗客の様子などを、身振り手振りを交えて、おもしろおかしく話して聞かせるのだ。

 バレンタインデーのチョコのことなど、本当に何も気にしていないとでも言うように。

 それとも、澄香に気を遣わせまいとして、わざと明るく振舞っているのだろうか。

 宏彦が今日の日のために予約しておいたという多国籍料理の店に着くまで、彼の話は途切れることはなかった。



 上着を脱ぎ、澄香の前に座った宏彦の着ているセーターに目が釘付けになる。


「これ。肩幅も、袖の長さも。ぴったりだったよ」


 澄香が宏彦の誕生日のプレゼントにと贈った薄いグリーンのセーターだ。

 京都まで持って行ったあの日に、廊下に置き去りにして帰ってしまった、あれだ。

 その後、何度か彼と会ったのだけれど、冬型の天気が続いたため着用するチャンスがなく、このセーターを外で着ている宏彦を見たのは今夜が初めてだったのだ。

 高校時代とは違って、今ではそんなに日焼けしていない顔にも、淡い色合いがよく映る。

 まるで貴公子のようだと思ったが、とてもじゃないが、気恥ずかしくて言葉に出来ない。

 こういうところが、昔なじみの同級生であることの難点だと痛切に感じる。

 左胸についたワンポイントのロゴマークがこれほどマッチする人物も少ないだろうと思えるほど、よく似合っていた。


「昨日は楽しかったか? 」


 マキと会っていたことを知っている宏彦が、目を細めて訊いてくる。


「うん。式のことはあたしに任せてって。マキったら、すっごくはりきってた」

「そうか。そのことだけど、九月なら一週間くらい休みが取れそうなんだ。澄香はどうかな? もし仕事が忙しいようなら、他の日で調整してみるけど」

「あたしも九月なら多分大丈夫だよ。あと半年か……。マキに頼んでみるね」


 片桐とのごたごたがあった次の日から、ずっと式の日取りについて話し合っていた。

 いよいよ結婚が現実のものとなって、澄香の前に迫ってくるのだ。

 こんなに幸せでいいのかと思えるほど、とんとん拍子に話が進んでいく。


 ホワイトデーのことには、お互い一切触れないまま、食事が始まった。

 アオザイを着た店員が、ベトナムのスープ料理であるフォーガーをテーブルに運んで来た。

 ナシゴレンや春雨のサラダなど次々とエスニックなメニューが登場する。

 どれも思ったほどくせもなく、風味も良くて食べやすいものばかりだった。

 タピオカのココナッツミルク味のデザートに頬を緩ませていると、急に宏彦が姿勢を正し、上着のポケットから取り出した小さな包みを澄香の前に置いた。

 澄香は首を傾げる。これは何だろうと。


「バレンタインデーのお返しだよ」


 澄香は目をぱちくりと見開き、宏彦の顔とその包みを交代に見た。


「澄香。何をそんなに驚いているんだよ。今日はホワイトデーだろ? ほら。開けてみろよ」


 澄香は何かの間違いではないかと、小さな包みをじっと見つめた。


「遠慮するな。さあ、早く」


 包みを開けろと、宏彦が澄香を急かす。


「ねえ、宏彦。あたし、その……。バレンタインデー、あなたに何もあげてないんだけど。チョコも、プレゼントも、本当に何も……。ごめんね。今まで、ずっとそれが気がかりだったの。どうしようって悩んでいるうちに、時間ばかりが過ぎちゃって。だから、これを受け取るわけにはいかないわ」


 澄香は細い朱のリボンのかかったその箱を宏彦の方に押し返す。


「はあ? 何を言ってるんだよ。澄香は俺に、この上ないほどの特上のプレゼントをくれただろ? バレンタインデーのあの夜、澄香は俺の気持ちに応えてくれた。好きだって言ってくれたじゃないか。それ以上、何が必要だって言うんだよ。それにあの日は急に俺が澄香の元に行ったんだ。チョコとか準備する時間は全くなかったんだしね。言っとくけど、俺。チョコレートは苦手だから。チョコより酒の方がいいよ。そして酒より……。澄香の方が……いい」


 澄香は箱をもう一度自分の方に引き寄せると、胸元で抱きしめ、小さな声でありがとうと言った。

 そしてあふれ出す大粒の涙がポロポロと彼女の頬を伝い、胸元の箱を濡らしていく。



 

 店を出た二人は、川沿いの道をゆっくりと駅に向かって歩いて行った。

 時折頬をかすめる風は、ほんのりと春の香りがする。

 まだ固く閉ざしたままの桜のつぼみを見上げ、そのすき間から夜空を仰いだ。

 やや西に傾いたところに瞬く星たちは、オリオン座だ。


 宏彦がふい立ち止まり、澄香を抱き寄せる。

 そして前髪をそっと指で持ち上げたかと思うと、シルクのような柔らかいキスが澄香の額に舞い降りた。


 この人の背中をもう二度離さないと、抱きしめる腕に力をこめた。

 この人と生きていく。何があっても一緒に生きていく。

 澄香の心は、ただひとつの方向に真っ直ぐに向かっていく。

 

 宏彦の背中に回された澄香の左手の薬指に、それまでにはなかった輝きが、ひっそりときらめきを放つ。

 それは、宇宙の遥か遠くから降り注いだ、星の子どもだったのかもしれない。



最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

これにて、かくれんぼ番外編第一部(1章~4章)は完結いたしました。

このあと、同窓会暴露編を予定しています。


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