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かくれんぼ  作者: 大平麻由理
番外編 1-4 青春酸歌
106/210

55.残り香 その2

「澄香……」


 宏彦がやっとの思いで澄香の名をつぶやいた。

 するとほぼ同時に澄香も宏彦と呼んだのだ。


 澄香が驚いたように一瞬大きく目を見開いたが、すぐに笑顔になる。

 そして繋いだままの宏彦の手をぎゅっと握り返してきた。


「宏彦。さっきは、あんな風に帰ってしまってごめんね。あたし……あの……」

「もう、何も言うな。花倉と約束があったんだろ? そうじゃなくても別にいい。俺が澄香にそう言わせてしまったのだから」

「宏彦……。あなたの手、すごく冷たい。もしかして、あそこで、ずっと待っててくれたの? 」


 澄香は宏彦の冷えた手を両手で包み込むように握り、宏彦を見上げて言った。


「ああ、待ってた」

「どれくらい待っててくれたの? それに、どうしてあたしがあそこで降りるってわかったの? もうちょっとで三宮まで行くところだったんだよ。そうなってたら、会えなかったんだし」

「そうだよな。今思えば、俺も無謀なことをやったものだと思うよ。でも……。なんとなくだけど、あの駅で澄香が降りてくるような気がして」


 こうやって出会える確証は何もなかったが、とにかく宏彦は彼女に会いたい一心で待ち続けていたのだ。


「そうだったんだ。あたしも、無意識のうちに、あそこで電車を降りてた。本当に三宮まで行くつもりだったのに」


 鼻と頬を赤くした澄香が宏彦を見上げながら真顔でそう言った。


「待っててよかったよ。こうやって澄香と会えた」

「宏彦ったら……。ねえ、どれくらい待っててくれたの? まさか、あの後すぐに来てくれたのなら……。何時間もってことになる、けど……」


 澄香の声が震えながら消えていく。


「何言ってるんだ。三十分しか待ってないよ。あと五分待ったら……帰るつもりだった」


 宏彦は澄香の目をじっと見た後、ふっと微笑んでみせる。

 もちろん、帰るつもりなど全くなかったけれど。

 二時間でも、三時間でも。

 澄香に会うためなら、一晩中でも待てる。

 そっちこそ、そうやって待ってくれたんだろと澄香を思いやる。


「それって……」


 宏彦の下手な嘘に気付いたのだろうか。

 澄香のうるんだ目に涙が浮かぶ。

 次第にそれが大きく膨らんで、頬に零れ落ちた。


「そうだよ。さっき寮の前で、澄香が俺に同じことを言ってくれたんだよな? 」

「えっ? あ……。どうしてそのことを? 」


 はっとした顔で、彼女が宏彦を見つめる。


「同じ寮に住む橋田係長が、ずっと何時間も俺の部屋の前で、待っていたって教えてくれたよ。なのに、そんな澄香の気持に気付いてやれないで、おまけに、あんなに嫌な思いまでさせてしまって……」


 宏彦は澄香の背中に腕を回し胸元に抱き寄せた。


「俺のこと、許してくれるのか? こんな俺でも、まだ澄香のそばにいてもいい? 」


 宏彦はもう何も言い訳をしなかった。

 片桐に対して、全く恋愛感情など抱いたことはないし自分から彼女に触れたこともない。

 が、澄香に誤解を与えてしまったことは紛れもない事実なのだ。

 彼女が不信感を募らせたとしても宏彦にはそれを責める資格はない。

 それでも尚、こんな自分でもまだ澄香が受け入れてくれると言うのなら。

 もう一度チャンスを与えて欲しいと、切実にそう願う自分がいた。


 すると、澄香がゆっくりと顔を上げ、いいに決まってるじゃないと口元を緩めて言った。


「……あなたのことを信じなかったあたしもどうかしてた。片桐さんも、辛かったんだと思う。だって、あたしたちのこと、何も知らなかったんだもの。きっと驚きすぎて、信じられなくて。虚勢を張ってしまったんじゃないかな。それに、あたしに負けないくらい、あの人も宏彦のことが好きだったんだと思う。多分……」

「澄香……」


 涙を流しながらも、気丈さを装って明るく話そうとする澄香が、何ものにも代えがたいほど愛おしく思える。

 宏彦の胸にじわじわと熱いものがこみ上げてきた。

 でも決して泣くまいと歯を食いしばり、よりいっそう澄香を強く抱き締めた。



 あれからどれくらい歩き続けたのだろうか。

 灯りの消えた小さなショッピングセンターを過ぎると、もうすぐ澄香の家に着く。

 宏彦はここまでの道のりの間中、澄香の肩を抱きながら彼女の話にずっと耳を傾けていた。

 それは寮で別れた後に起こった出来事で、とても衝撃的内容だった。

 けれど、これからは何も隠し事はしたくないという彼女の意向を最大限に尊重した結果なので、目をつぶらざるを得ない。

 花倉との約束が言葉の弾みだったことは想定の範囲内だったが、京都駅であの先輩に再度呼び止められたと聞いたときには、さすがに平静ではいられなかった。

 でも、今ここに身を任せてくれる彼女がいることが全てを物語っている。

 宏彦は、自分を信じてくれた澄香に気持を返すべく、彼女の話をしっかりと聞き届けた。

 まだ信じられないが、その先輩が宏彦の行動の真意を代弁してくれたと言うのだ。

 そしてその先輩は、仕事を通して知り合った女性と近日中に結婚するらしい。

 澄香がほんの数時間の間に宏彦とのわだかまりを解いてくれたのは、まさしくこの二人に出会ったおかげなのだろう。

 

 宏彦は自分の巻き起こした数々の失態に恥じ入ると同時に、見えないところでこんなにも様々な人に支え、見守られていることに思わず畏敬の念を抱かずにはいられなかった。


「宏彦。神戸まで来てくれてありがとう。あたし、嬉しかった。今夜また宏彦に会えて、よかった。じゃあ、明日……」

「ああ。明日、楽しみにしてる。あとでメールするよ」


 澄香の家の少し手前で、お互いの身体をほどくように離していく。

 肩を抱いていた手を背中伝いに滑らせて、真横にあった彼女の手を、ほんの一瞬だけ握り締めた。

 そして、今度こそ本当に別れの時がやって来るのだ。

 また朝が来れば会えるのに、まるで永遠の別れのように寂しさが襲ってくる。

 宏彦は腕の中にかすかに漂う彼女の残り香を感じながら、今灯ったばかりの部屋の明かりを見上げ、しばらくその場にたたずんでいた。


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