54.残り香 その1
宏彦は自動販売機横のフェンスにもたれかかり、改札から押し出されてくる人を遠目で追っていた。
ここは小学生の頃から慣れ親しんだ六甲の裾野に広がる街だ。
知り合いも多い。
すでに何人かの人にじっと顔を見られた。
どこかで見たことのある奴だなとでも言わんばかりに、どの人も決まって怪訝そうな表情を浮かべた後、足早に立ち去って行く。
高校を卒業してからは、ほとんどこの街に足を踏み入れていない。
幼い頃の面影に今の自分を重ね合わせるも、誰もが宏彦だとわからないのか、納得いかない表情を浮かべたまま家路を急ぐ。
宏彦とて、同じだった。
中学、高校時代の先輩か後輩か、あるいは、近所の人かもしれない。
きっとどこかで出会ったことがあるのだろうけれど、誰一人、名前を思い出せなかった。
しいて断言するならば、その人たちは皆、宏彦の待ち人ではなかったということだ。
誰に見られようが、何と思われようが。
彼女さえ再びこの腕に抱きとめることが出来るのであれば、それ以上はもう何も望まなかった。
どれだけの本数の電車を見送ったのだろう。
梅田方面東行きも新開地方面西行きも、数え切れないほどの車両が宏彦の背後を通り過ぎて行った。
次第に乗降客の人数も減ってくる。
それに反比例するかのように、ほろ酔い加減の血色のいい大人たちの出没頻度が俄かに増加し始めるのだ。
宏彦は、以前にもこうして誰かを待っていたことを思い出していた。
それは多分、小学生の頃だったと思う。
家で一人で待っているのが途方もなく寂しく、遠方に出かけた両親を出迎えるために、ジュースを片手に半べそをかきながら改札の向こうを覗き込んでいたことがあった。
祖父母や友人が来るのを、今か今かと首を長くして待っていたこともあった。
でも、記憶の中にひときわ鮮明に浮かび上がるのは、やはり高校の卒業式の日だろう。
忘れもしないあの夜の出来事だ。
木戸のために澄香を三宮に残して帰って来たあの日は、やはり今夜のように寒い夜だった。
どうしても彼女のことが気になって、今と同じ場所でこっそりと待ち伏せしたのだ。
一時間も経たないうちに宏彦の前に姿を現した彼女は、幾分頬を染め、あろうことか親友の木戸と手をつないでいた。
まるで恋人同士のように寄り添いながら、宏彦の立っているほんの数メートル先の道を遠ざかって行ったのだ。
誰かに見られているとでも思ったのか、彼女はしきりに辺りを気にしている様子だった。
けれど、もうすでに自分の出る幕はないと悟った宏彦は、他の乗降客に紛れて、家とは反対の方向に逃げるように走り去った。
すべての光景は昨日のことのように、はっきりと思い起こすことが出来る。
あれ以来、ここに近付くことはなかった。
この褐色の電車に乗ることすら、ずっと拒み続けていた。
どうしても実家に立ち寄る必要がある時は、たとえ遠回りになっても違う路線を使った。
それほどまでに宏彦を深く傷つけたこの地であるにもかかわらず、今また、ここで身を潜めるようにして彼女を待っている自分に、宏彦はやや自嘲気味に乾いた笑みを浮かべた。
今日、ここで澄香を待つという選択も、賭けに等しいものがあった。
もうすでにバスの最終便の発車時刻は過ぎてしまっている。
彼女がこの駅を通り過ぎ、三宮まで出てタクシーに乗る可能性も十分にあるのだ。
花倉との約束も、百パーセント嘘だとは言い切れない。
二人の約束が本当で、彼女の家に泊まるのなら、この先いくら待ち続けても、澄香には会えないだろう。
身にまとっている薄手のジャケットが恨めしく思えるほどに、二月の夜は冷える。
日中、あれほど暖かかった京都の街中が、まるでどこか南の国のリゾート地であったかのように思えるほど、今は別世界にいる。
時折、スラックスのポケットに入れている手を出して、こすり合わせてみるのだが、冷え切った指先はすでに感覚を失い、残念ながらぬくもりを取り戻す気配は全くなかった。
冷え固まった手を再びポケットに入れ戻し、たった今ホームに入ってきた電車が、ぎいっというブレーキ音と共に停車する気配に耳を澄ませた。
今度こそ澄香が降りてくるかもしれない。
自動販売機の横から身を乗り出し、出てくる人物を一人ずつ見定める。
きっと、駅についたよと連絡をしているのだろう。
携帯を耳にあてながら歩いてくる中年男性が、宏彦の横を通り過ぎる。
この寒い中、ミニスカートに薄いセーター姿の女子高生風の女の子が宏彦を視界に捉えた瞬間、あからさまに不快な表情を浮かべる。
大方、不審者とでも思ったのだろう。
ぽつぽつと出てくる人を追いながら、やっぱり澄香はいなかったと肩を落とし、元の場所に戻ろうとした時だった。
セミロングの緩くカールした髪を揺らし、ふらりとよろめく女性に目を奪われる。
脱げかかったパンプスをたぐり寄せるようにしながらその場で立ち止まっている人物に向かって、宏彦の身体は勝手に動き出していた。
もう一度その人がバランスを失いかけた瞬間、ためらうことなく手を差し伸べ、大丈夫かと彼女に訊ねたあと、黙って見詰め合った。
繋ぎとめた彼女の手はとても暖かかった。
札幌から駆けつけて初めて手を繋いだ時にも、夢にまで見た彼女の手は今日と同じで暖かく、そしてしっとりと柔らかかった。
街灯が照らす歩道の上を、ゆっくりと歩いていた。
どちらかがそうしようと言ったわけではないのだが、自然と家のある方向に向かって歩き始めていた。
大通りを過ぎ路地に入ったとたん、駅の喧騒が遠のき、住宅街のひっそりとした中に彼女のヒールの音だけが、コツコツとよく響いた。
あれから何もしゃべっていない。
花倉と会ったのかどうかも聞いていない。
澄香も何も言わない。
片桐のことも何一つ訊ねてこなかった。
このまま家まで歩くと、何分くらいかかるのだろうか。
すべて上り坂だ。一時間近くかかるのかもしれない。
ヒールだと歩きにくいだろうと澄香を気遣うが、うまく言葉が出てこない。
前から犬を連れた若者がやってきて、すれ違う。
茶色い毛並みのポメラニアンと目が合った。
くりっとした目だ。澄香に似てると思った。
間を空けずに次にやってきたのは、ウォーキング中の年配の夫婦だった。
おそろいのジャージを着て、指導書どおりとおぼしきフォームで闊歩する年配の夫婦。
首にかけているタオルまで同じ柄だった。
なぜかすべての事がおかしくて、宏彦はくくっと笑ってしまった。
それにつられるように澄香も肩を震わせる。
今度はお互いに顔を見合わせて、声を出して笑ってしまった。
あわてて振り返ると、さっきの夫婦はもうすでに随分離れたところを歩いている。
ポメラニアンにいたっては、完全に視界から消えていた。
これで誰に遠慮することなく笑えると思うと、逆に笑えなくなり、また二人とも黙り込んでしまった。