52.早く俺の前から消えてくれ その1
宏彦視点になります。
「澄香? 本当に大丈夫なのか? 」
「あっ、いけない。時間が……。マキを待たせちゃ悪いから。それじゃあ。いろいろ、ありがと……」
コツコツとヒールの音だけを響かせて、澄香が宏彦の前から消えていく。
これは何かの間違いじゃないのか?
宏彦は目の前で起こった光景が、現実のものだとは思えなかった。
テレビドラマでも見ているような、奇妙な感覚が彼を取り巻く。
今ならまだ間に合う。
追いかけろ。澄香を引き止めるんだ。さあ、早くっ!
誰かが心の中で叫ぶのだが、宏彦はその一歩が踏み出せなかった。
花倉真紀と約束があると言った時の澄香のすがるような目が、すべてを物語っていた。
それは決して、引き止めてくれと言っているようには見えなかったのだ。
罠にかかった子羊が、今すぐにここから逃してくれと懇願しているような目だった。
そして宏彦は、自分には彼女を追いかける資格がないとも思った。
花倉との約束など、口から出任せの虚言かもしれない。
いや、きっとそうだ。
でも、澄香がこの場から一刻も早く立ち去りたいのなら、今はそうさせてやるのが一番いい選択だと思ったのだ。
片桐が何を言ったのかは知らないが、澄香が傷ついているのは明らかだった。
宏彦は澄香を呼び止めたい衝動をどうにか堪え、後にいる片桐に向き直った。
「ひとみ……いや、片桐先輩。もうこれで用は済みましたね」
宏彦の冷ややかな抑揚のない声が、片桐に向けられた。
「えっ? な、何? やだ。いったい誰に向かって言ってるの? 」
「何度も言わせないで下さい。用が終わったのなら、お帰りはこちらです」
宏彦は、澄香が下りていったばかりの階段を片桐に指し示す。
廊下の真ん中には、澄香が置き忘れた紙袋がぽつんと放置されていた。
誕生日のプレゼントだと言っていたものだ。
早く中を見てと、瞳を輝かせながら宏彦に話していた。
まるでその紙袋が澄香自身であるかのようにそっと拾い上げ、部屋の中に入れる。
そして外からドアに鍵をかけた。
尚もその場から動こうとしない片桐に、宏彦はこれみよがしに冷たい視線を投げかける。
「宏彦。何言ってるの? あたしが彼女を追い返したとでも思ってるのかしら。あの子、言ってたじゃない。マキとか言う子と約束があるって。宏彦もその子のこと、知ってるんでしょ? 」
「片桐さん。澄香がここでそう言わなければならなかった理由が、まだわからないのですか? 確かにマキという人は、俺もよく知ってる同級生です。そいつの名前を出せば、俺が理屈抜きに澄香の言ったことを信じると彼女もわかっている。自分の胸に手を当てて、よく考えてみてください。先輩が澄香に何を言ったのか……」
「あたしは、ただ……。宏彦とは、東京でも仲良くしてたって、そう言っただけよ。どこか間違ってる? あたし、嘘言ってるかしら? 」
「そんなことなら、改めて言ってもらわなくても、俺から澄香にきちんと話しています。ただの先輩と後輩の関係だったと。それ以上でも、それ以下でもない。違いますか? それじゃあ、先輩。お元気で……」
感情など全く感じられないよそよそしい声でそこまで言うと、宏彦の前に立ちふさがる片桐の横をすり抜けるようにして、階段を下りて行く。
「ま、待って。いったいどこに行くの? あの子を追いかけるつもり? 」
宏彦の後を追うように、片桐があわてて靴音を響かせて、駆け下りてくる。
「先輩には関係ない」
「ねえ、宏彦。待って。あたしたち、ゆっくり話し合った方がいいと思うの。ね、そうでしょ? 」
「何も話すことはないですよ」
宏彦は振り向きもせずそう言うと、一段とスピードを上げながら、ずんずんと歩いていく。
携帯を取り出し、澄香に宛てて梅田まで迎えに行くと右手で手早くメールを打った。
「お願い、待って。あたしたち、これまで、決して恋人同士にはなれなかったけど。お互い、理解し合っていたし、あたしは。あたしは……。あなたが好きだった」
無言のまま前を行く宏彦に引き離されまいと、息をはずませた片桐が小走りになりながら宏彦を執拗に追う。
「ねえ、宏彦。お願い。話を聞いてよ。あたしたち、慣れない海外暮らしで、最初はいろいろ辛い経験もしたわよね。宏彦はイギリスで。あたしはアメリカで。帰国してからも、苦労の連続だった」
「帰国した後、何の努力もせず、ただ皆からちやほやされるのを待っていただけのあんたに、そういうことを言われたくない」
宏彦は前を向いたまま、言葉を投げ捨てる。
「そんな……。ひどい。あたしがちやほやされたかったのは、宏彦、あなただけなのに。他の人なんて、どうでもよかった。ねえ、待って。お願い、行かないで! 」
「俺は、自分なりに皆に溶け込もうと努力もしたつもりです。心を開いてくれた友人も多かった。そして……。親身になってくれた木戸が澄香を好きならば、そして澄香もそんな木戸を好きというのなら、それでいいと思った。俺は、木戸のためなら、澄香をあきらめられると思っていたんです」
「宏彦……」
宏彦は突如後を振り返り、苦しげに口元を歪め、片桐を睨みつけた。
「ところがどうだ。あきらめるどころか、ますます澄香への想いが募っていく。木戸と付き合っていると思っていた澄香が、大学に入ってしばらくして、実はそうではないと気付いた。たとえメールだけの付き合いでも、澄香の心に木戸は存在しないと確信するのに充分だった。木戸が教え子と結婚を考えていると言った時、俺をがんじがらめにしていた木戸への呪縛が嘘のようにすっと解けたんだ。澄香が誰を思っていてもいい。そんなことはもうどうでもよかった。いつもと様子が違う澄香が気になって、出張先の札幌から神戸に舞い戻ったその日に、やっとお互いの気持を確かめ合えた。澄香もずっと俺のことを……」
「そんなの嘘よ! あの子が本当にあなたのことを好きだったなら、メールなんてしてないで、東京のあなたのところに飛び込んで来たはずだわ。何よ今さら。誰がそんなこと、信じるものですか」
片桐はこぶしを握り締め、唇を戦慄かせる。