9.高校二年生 その3
「ねえ、澄香。あんたさあ、最近やけにかがちゃんと仲良くない? あっ、別に嫉妬してるとかそんなんじゃないよ……」
放課後、部室に向かおうとしていた澄香は、突然耳元でささやいた親友の言葉にびくっとして立ち止まった。
「えっ? そ、そんなことないって。ただ、選択科目の英語の授業が同じだからそう見えるだけだってば。それと、前にも言ったでしょ? 加賀屋君とは同じ中学出身だって」
「それはそうだけど。澄香の態度、なんか怪しい……」
澄香の親友であるマキこと花倉真紀は、持ち前の鼻の良さと頭の回転の速さで、澄香の変化にとうとう気付き始めていたのだ。
確かにあの忘れ物の日以来、宏彦とよくしゃべるようになったことは事実だ。
でも会話といっても、二度と触れて欲しくないあの一件のことばかりだから、逆にテンションは下がる一方だった。
「俺は、加賀屋宏彦。覚えてくれた? 」だの。
「あっ、俺、加賀屋。みんなみたいに、かがちゃんと呼んでくれ」だの。
「忘れてないよな、俺のこと。加賀屋だよーーん」だの……。
さすがにこう何度も繰り返されると、たとえ相手が澄香の想い人であるにしても辛いものがある。
けれどそれがからかわれているだけだとわかっていても、好きになった人と接点を持てるのは嬉しい。
話し掛けてくる時の宏彦の笑顔が、たまらないのだ。
「ねえ、澄香。あんた、かがちゃんのこと、好きでしょ? 違うとは言わせないから」
マキは、いつも真正面から物事の真意を突いてくる。
彼女の攻撃を瞬時にかわすことなど、たとえ恋愛の達人であっても無理だろう。
瞬く間に捕らえられ、白状させられる始末だ。
「う、うん。そうかも、しれない。加賀屋君のこと、好きになったかも……。あっ、でもお願い。このことは誰にも言わないで。特に彼には知られたくない。今くらいの関係が、あたしにはちょうどいいの」
「ほーーら、やっぱりね。あいつのこと、好きなんだ」
「うん……」
降参だ。マキには敵わない。
「それに、今くらいの関係がちょうどいいって、澄香ならそう言うと思った。わかってるって。誰にも言わないよ。急いては事を仕損じる、って言うじゃない? 慌てず、ゆっくりね」
「うん。わかってくれてよかった。絶対に絶対に、誰にも言わないでね」
「はいはい。絶対に、言わないよ。でもね、本当にかがちゃんが好きなら態度で示さないと。あの手の男は女が黙ってないよ。誰かに取られてからじゃ、手遅れだからね。それじゃあ、あたしがまず手始めに彼をくどき落として……」
「ま、マキっ! それだけはやめて! お願い」
まさかそんなことはありえないと思いながらも、マキの暴走を止めずにはいられない。
「ばーか! そんなことするわけないでしょ。そりゃあ、もちろん、あたしもかがちゃんのことはいいなって思ってた。三日前まではね。でもね、むふふふ……。実はさ、次のターゲット、水泳部の先輩に変えたんだ。だから安心してね、すみかちゃん! 先輩の逆三角体型、ハンパなくかっこいいんだから。去年からずっと日焼けしたまんまの顔に、えくぼが素敵なの。あっ、いけない。もう帰らなくちゃ。じゃあね、澄香も部活、がんばって」
マキが笑顔で手を振り、帰っていく。
澄香はほっと胸を撫で下ろしながらも、さっきのマキの言葉が引っかかっていた。
誰かに取られてからじゃ、手遅れだからね……というところに。
澄香は大きく頭を振り、そんなことは絶対に嫌だと心の中で叫んだ。
でも、もしマキの言ったとおり、宏彦が誰か他の人と付き合うことになったとしたらどうすればいいのだろう。
その時は、遠くからそっと彼を見守っていられるだけでいいんだ、などと自分に言い聞かせ、恋愛初心者にありがちな弱気な態度になる。
澄香は唇を噛み、テニスラケットを胸元でぎゅっと抱きかかえるようにして、足早に部室に向かった。
澄香は、生まれて初めて抱いた、人を好きになるという感情に、自分自身どうするべきなのかわからなくなっていた。
部活をして、友人とおしゃべりを楽しみ、テストで赤点ぎりぎりのラインをすり抜け、楽しく過ごせればよしとしていた高校生活に、突如新たに加わった宏彦への想い。
授業で指名されて、英語のテキストをネイティブな発音ですらすらと読む宏彦のその声色に、そして、何度も向けられた笑顔に、澄香の心はみるみる彼に奪われていく。
告白したわけでもないし、もちろんされたわけでもない。
宏彦との関係が進展することもなく、ただのクラスメイトのまま、一日、また一日と過ぎていく。
これが本当に澄香が望んだ日常だったのだろうか。
答えはまだわからないままだ。




